四半世紀後の2万キロ・第13章


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
足尾線
群馬県・栃木県
わたらせ渓谷鐵道
1977.5.28
2007.4.29


  いよいよ最後の1線である。記念すべき国鉄全線完乗を、どの線で達成するか。乗りつぶしマニアなら誰もがこだわりを見せるところである。宮脇氏が出した答えは、なんと足尾線であった。北関東の地味な、特徴といえば銅山の鉱毒ぐらいしか浮かばない足尾線である。さすがにどうなんだろう、と思わざるを得ない。

 宮脇氏の筆によれば、最後の1線が足尾線になったのは偶発的で不本意であるらしい。が、いかにも鉄道ファンらしい緻密さと頑固さを持っている氏のことだ、何か思いがあって足尾線を選んだのではないかと勘ぐりたくなる。足尾が嫌なら、前章の北海道・東北と順序を入れ替えればいいだけの話である。瀬棚や増毛といった叙情溢れるローカル駅を終着点にする事だって出来たはずだ。

 ではなぜ足尾線なのか。僕は、「乗り残したのが末端の1駅だけだった」という点に求めたい。東北から帰ってきた後、氏は楽しげにこう記している。

「これで残るは足尾線の足尾−間藤一・三キロのみとなった。(中略)全線比は九九・九九三七パーセントとなったが、もはやそれは数字の遊びでしかない。」

 第11章で富山港線を完乗した時点で、足尾線は全未乗線区中最短となっていた。「数字の遊び」をしたかったがためだけにこの線を残したのではないか。突飛な空想だが、ありえないとは言い切れない。

 ともあれ本書の中では、足尾線がラストになった理由を「案外行きにくい」ためだったと記している。この記述そのものも、非常に良く分かる話である。氏や僕の住む(と一緒くたにすると怒られそうだが)東京西郊から足尾線の出る桐生までは、とにかく行きづらいのである。僕にしたって乗ったのはつい最近、今年のGWであった。
間藤駅
 桐生駅は今では、JR両毛線ともども立派な高架駅に改築されている。フリー切符を買うべく、天井の高いコンコースで窓口に並ぶ。すぐ前には、リュックを背負った壮年の夫婦がいて、駅員と話し込んでいる。

「今、パンフレットを見て乗りたくなったんですけど、わたらせ渓谷まで」
「わたらせ渓谷、って駅はありませんよ」
「じゃあ、終点まで」

 見たところ鉄道ファンには見えないのだが、そういう乗り方をする人がいるのか、とビックリした。

 こげ茶色の2両のレールバスの座席は、良く埋まっていた。しばらく両毛線上を走り、ぐいと右にそれると東武線が近づいて来て赤城。ここで見事に満員となった。ほとんどが行楽客で、連休とはいえ大したものである。程なく上毛電鉄と交差、桐生界隈の鉄道網の複雑さ(関東では海老名と双璧をなしている、と言えよう)に感嘆してると大間々に着く。古びたホームに駅員が立ち、列車を出迎える。ここまでは都市近郊路線の趣も濃い。

 しかし大間々を出ると、車窓は一変する。渡良瀬川の流れがぴったりと寄り添い、列車はゆっくりと谷間を遡る。木々が一斉に芽吹き、岩は驚くほど白く、水は澄み切っている。車内から幾度も歓声が上がる。そんな光景が、随分長いこと続いた。

 にわかに家が建て込み始めると足尾の町である。炭住らしき家並を見上げ、廃工場の脇をすり抜け、列車は足尾駅に滑り込む。何やらお祭りの最中で、駅は喧騒の中にあった。半分以上のお客さんが降り、ちょっと身軽になった列車はエンジンを震わす。その時、僕の目に入った物、それは駅舎に掲げられた「海抜六四〇米」と書かれた看板だった。宮脇氏の記述そのままに、今でもそこにあった。

 足尾の町は足尾と一つ手前の通洞の間にある。足尾を出ると車窓は鄙び、両側から岩山が迫ってくる。切り立った崖の下で列車は止まった。終着、間藤である。コンクリート板張りのホームは、これまた宮脇氏の記述と変わっていない。
駅前風景
 間藤は駅前広場も無い小さな駅で、正面には精錬所が建っている。休日のせいかあるいは元から操業していないのか、敷地内には人っ子一人見当たらない。上流側を見渡せば、狭い通りに沿って木造家屋が軒を連ねている。奥に連なる山々の低木はまだ芽吹きを迎えておらず、素寒貧とした眺めだ。北海道の炭鉱町に闖入したかのような錯覚を覚える。今にも向こうから、高倉健や桃井かおりや、髪の長い武田鉄矢がやってきそうだ。

 時代に取り残されたかのような間藤駅だが、実は周囲は賑やかである。駅舎はきれいに建て替えられ、ホーム脇には展望台まである。乗客の大半は家路につくことなく、展望台に登ったり写真を撮りあったりしている。皆、折り返し乗車をする観光客なのである。日光市内とは言え、ガイドブックに載る事など決してない小駅が、活況を呈しているのだ。

 「カモシカだっ!」と誰かが叫んだ。見れば駅背後の崖っぷちに、カモシカが確かに1頭、観光客を見下ろすようにじっと佇んでいる。ホームにはちょっとした人垣が出来て、時ならぬ鑑賞会となった。

 宮脇俊三氏が「時刻表2万キロ」を書いた頃、用も無いのに鉄道に乗りまくる人間はほとんど存在しなかった。少なくとも、世に知られてはいなかった。彼らは一般の乗客たちにまぎれて、そっと息を潜めて電車に揺られていた。

 しかし今、間藤駅はこうして「用も無いのに鉄道に乗りまくる人間」で賑わっている。彼らの大半は、決して鉄道マニアではない。ちょっと旅がしたくなって、ふらりとここまでやって来たのである。鉄道の旅の楽しさは、もはや普遍的なものとなっている。宮脇氏が蒔いた種は、確かにこの国に根付いたのだ。

 ここは間藤 「時刻表2万キロ」の終着駅

 駅舎に貼られた張り紙が、控えめにそう告げていた。

(つづく)


2007.7.29
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