四半世紀後の2万キロ・第11章


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
小松島線
徳島県
廃止
1977.5.7
未乗
牟岐線
徳島県
JR四国
1977.5.7
未乗
能登線
石川県
廃止
1977.5.8
2004.10.10
富山港線
富山県
運休中 ※
1977.5.8 1997.8.6
※ 富山港線は、2006.2.28 JR西日本としての営業を終了。2006.4.29 富山ライトレールとして開業予定。


 「十八・三キロに乗るために二、一三三・二キロの旅をした」

 末尾のこの一言がすべてを表す第11章。四国と北陸の組み合わせというのも相当なものだが、全長1.9kmの小松島線、4駅だけ延伸した牟岐線、末端2駅だけ未乗の能登線、末端1駅だけ第1章で乗り損ねた富山港線…という残し方も相当エキセントリックである。落穂ひろいもここまでくるともはや壮絶。乗りつぶしは計画的に、という教訓をファンに深く深く与えた1章である。

珠洲特急 方面が多岐に亘ったせいでもないだろうが、見所も多い章だと思う。グリーン車のくだりや「富山のつぎが大宮のようであった」という表現はいかにもこの人 らしいエスプリが効いていてニヤリとさせられるし、日和佐の海亀のくだりに後年の名作「殺意の風景」の原型を認めることもできる。珍しく行き当たりばったり的な旅であるのだが、徳島へ新幹線と伊丹からの東亜国内航空を乗り継いでいこうとするルート取りも興味深い。今ならば羽田発のスカイマークが常道だろうし、大阪で乗り継ぐなら迷うことなく高速バスである。−いずれにせよ、オール鉄道で岡山経由という選択肢は出てこないのだが。

 さて、僕はといえば小松島線は無論のこと牟岐線まで未乗である。数年前に室戸岬周りで乗ろうとしたのだが、折悪しく大型台風に遭遇して泣く泣くカットした経緯がある(この前html化しようとした四国旅行記がこれ)。もっとも、その後すぐにごめん・なはり線が開業したから、あの時室戸岬に行かなかったのは正解だったかもしれない。まさにもう一度、乗り直しに行かなくてはならないところだったわけである。

 一方の北陸、能登線には1年半ほど前に乗った。穴水以遠の廃止が確定した後の事で、誠に遺憾ながら初乗りにしてお別れ乗車であった。

 半島という土地は、どうも距離感がつかめない。例えば三浦半島なんて、感覚的には横浜から三崎口まで30分もかからない気がするのだが、実際にはその1.5倍を要する。品川からなら1時間を越えるから、立派に?田舎である。能登半島たるや距離感のつかめなさにおいては他を圧しており、金沢から蛸島まで4時間以上、と知った時には文字通り絶句した。蛸島駅

 もっともそれは、鈍行列車を乗り継ぎ乗り継ぎしていった場合の所要時分であって、金沢から奥能登へは「珠洲特急」と称する路線バスが走っている。このバスは蛸島のすぐ手前、珠洲駅までを2時間半で駆け抜けてしまう。これでは全く勝負にならない。かく言う僕も、金沢からの往路はこのバスに乗った。リクライニングシートは快適で、高速道路は空いており、大海原から山峡まで目まぐるしく変わる車窓も楽しかった。ただし穴水で一般道に下りてからは随分のんびりした走りで、危うく珠洲での乗り継ぎに失敗するところだった。

 珠洲から終着蛸島までは列車に乗った。蛸島は小さな駅で、ホームは片側1面のみで側線さえも無く、ただしばらく先で線路が途切れているだけの場所であった。しかし階段を下れば存外に立派な駅舎があり、売店さえあった。お客さんの出入りも活発で、JTB時刻表にない臨時列車まで増発されていたのは結構だったけど、当然のことながらそれは廃線を控えた一過性の熱気でしかなかった。

 折り返し列車の乗客は10名。見事に全員が同じオーラを発していた。次の駅で乗ってきた女の子は、雰囲気に気圧されたのか座席に腰掛けようとはしなかった。


(つづく)


2006.3.21
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