四半世紀後の2万キロ・第14章


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
気仙沼線
宮城県
JR東日本
1977.12.11
2003.3.9


 足尾線で国鉄完乗を成し遂げた宮脇氏は、一種燃え尽き症候群に至ったようである。自らを時刻表の「極道者」とまで称した氏が時刻表新刊を買い忘れたとなれば、これは重症だ。

 当座の救いとなったのは、やはり新線の開業であったらしい。気仙沼線が全通するや氏はにわかに色めき立ち、「一日であろうと一〇〇パーセントを下回りたくない」と開通日に乗りつぶしに出かけている。この辺り、いかにも完璧主義である。

 故意によるのか偶然の賜物か、宮脇氏は開通記念列車に乗り合わせ、地元の熱狂を目の当たりにする。どこか高揚気味な乗車記の後、しかし氏はこうつぶやく。

 「これでまた乗る線がなくなってしまった」、と。

 日本全国を乗りつくそう。その情熱の先に待っていたものは、祭の後の如き寂寥と虚無であった。あまりにも残酷な結末。乗る線が無ければ書く事も無く、愛読書の一説を引用して本書はひっそりと幕を閉じる。会社を辞め独立した宮脇氏が、鉄道紀行の大家として不動の地位を確立するのは、まだしばらく先のことである。

 さて、僕が気仙沼線に乗ったのは2003年の3月、宮脇氏が亡くなられた翌月だった。友人と連れ立っての追悼紀行であり、当然、その時の記録がこの企画の締めとなるはずだった。が、遅筆に遅筆を重ねた結果、早いもので5年の月日が経ってしまった。当時の記憶は最早おぼろで、書くべき事が見当たらない。

柳津駅  ならばするべき事は一つ。2008年2月、僕はもう一度気仙沼へ出かけた。

 小牛田13時41分発の気仙沼行普通列車は、ワンマン2両編成だった。ほぼ半数の座席が埋まっていて、時間帯を考えれば盛況と言って良いだろう。開通当時大赤字を懸念された気仙沼線は、赤字には違いないだろうが、仙台と南三陸を直結する路線としてそれなりな扱いを受けている。

 いかにも宮城県らしい、区画の広い田んぼの中を列車は淡々と走る。前谷地から気仙沼線に入り、北上川を渡ると柳津。ここからが当時の新規開通区間である。交換待ちのため暫く停車。辺りはひっそりと静まり返っている。開通日には出征兵士の見送りを想起させるほどの人波があったそうだが、想像する事は難しい。駅舎は建て直されたが、どうも無人のようだ。

 陸前横山、陸前戸倉と小駅が続く。比較的歴史は浅いから、ローカル線一般の鄙びた雰囲気とは少々異なっている。無粋なコンリートのホームと規格的な鉄柵が揃って古びていくさまは、味があるとはちょっと言いがたい。戸倉を出てトンネルをくぐると、列車は海を見下ろす高台に飛び出した。東海道線の根府川付近にも似通った絶景だが、すぐに下り勾配となり、家並の中に突っ込むと志津川である。

歌津駅  「時刻表2万キロ」最終章における、クライマックスがこの駅である。「サッカーでもやれそうな」と書かれた駅前広場の大きさはちょっぴり誇張で、せいぜいフットサルと言った所だが、この広さに5000人も詰まったとなればこれは驚異である。今日は勿論無人だが、列車からはぱらぱらと降客があった。昨今のローカル線にしては、この程度でも随分多く感じる。

 清水浜・歌津と小駅が現れては律儀に停まる。あの開通の日、「どうしてあのおばさんたちのようになるのだろう」と宮脇氏を不審がらせた可憐な少女達は、もうとっくにオバサンだろうなあと思う。時の静かな流れを感じる。眠くなってきた。

 15時49分、気仙沼着。隣のホームで大船渡線一ノ関行がお客を待っている。さあ次は、田沢湖線だ。幸いな事に、僕にはまだ乗るべき線がある。

(終わり)



あとがき

 ようやく完結しました。遅筆遅筆と繰り返し言い訳してますが、程度ってモノがあります。足掛け5年ですよ。「四半世紀後−」じゃなくて、「30年後の2万キロ」になってしまいました。困ったものです。

 レクイエムでもなければ書評でもない、そんた中途半端な立ち位置で始めたこの企画、結局最後まで中途半端なまま終わってしまった感があります。書ききった事に(自分的には)意味がある、とむりやりこじつけておこうと思います。

 もう新作は無いけれど、それでもこれからも、いつも同じ箇所でクスリとしながら、思いがけず新しい感動を見つけたりしながら、宮脇俊三氏の著作に向き合う日々が続いていくのでしょう。さて、来週はどの文庫本をカバンに詰めましょうか。


2008.4.26
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