四半世紀後の2万キロ・第3章


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
唐津線
佐賀県
JR九州
1975.12.28
2000.12.16 ※1
松浦線
佐賀県・長崎県
松浦鉄道
1975.12.28
2000.12.16 ※2
大村線
長崎県
JR九州
1975.12.28
未乗
三角線
熊本県
JR九州
1975.12.28
未乗
指宿枕崎線
鹿児島県
JR九州
1975.12.29
1997.12.18
宮之城線
鹿児島県
廃止
1975.12.29
未乗
香椎線
福岡県
JR九州
1975.12.30
未乗
勝田線
福岡県
廃止
1975.12.30
未乗
日田彦山線
福岡県・大分県
JR九州
1975.12.30
未乗
田川線
福岡県
平成筑豊鉄道
1975.12.30
未乗
伊田線
福岡県
平成筑豊鉄道
1975.12.30
未乗
添田線
福岡県
廃止
1975.12.30
未乗
上山田線
福岡県
廃止
1975.12.30
未乗
加古川線
兵庫県
JR西日本
1975.12.31
2000.5.4 ※3
三木線
兵庫県
三木鉄道
1975.12.31
2000.5.4
北条線
兵庫県
北条鉄道
1975.12.31
未乗
鍛冶屋線
兵庫県
廃止
1975.12.31
未乗
        ※1 久保田−山本を除く。   ※2 有田−伊万里を除く。   ※3 厄神−谷川を除く。


 4日間で実に17線区乗車という大紀行。観光要素はほとんど無く、未乗線区がある限り前へ前へと進んでいく。帰路に加古川線群まで立ち寄ってしまう、まさに執念の第3章。

 唐津−西唐津2.3kmの乗り残しに苦心惨憺するエピソードから始まった本章は、筑豊の炭鉱線を神業としか思えない接続のよさで乗り渡るあたりで最高潮を迎える。時刻表を読み込むコツも時に織り交ぜ、書いても書いても題材が尽きないとばかりに宮脇氏の筆は進んでいく。少しばかり調子に乗りすぎたのか、「ローカル線はつまらない」と言いかけて慌てて話をやめてしまうくだりは何だか微笑ましい。さらに、鹿児島本線の遅延にしばしば触れているのが次の九州行(第9章)の伏線だとすれば、物書きとしての巧みな戦術を感じずにはいられない。

 ところで、僕の九州ローカル線の足跡はといえば表の通りである。全然乗っていない。つい先日北陸に行って七尾線に乗った結果、九州エリアの残存距離はとうとう中部エリアを追い抜き、全国で最も乗りつぶしが進んでいない地区になってしまった(私鉄・第3セクター鉄道含む)。何せ、大幹線の日豊本線ですらまだ一部乗り残しているのである。

 そんな九州の中で、数少ない乗車路線から印象的なものを一つあげるとすれば、やはり最南端の指宿枕崎線であろう。

 指宿枕崎線に乗ったのは1997年、初めて九州に行った時のことである。就職を控え、学生のうちに遠い所から乗っておこうという思惑を抱えた旅であり、事実その後現在に至るまで鹿児島県には足を踏み入れていない(本当は、行こうと思えばいつでも行ける程度にヒマなのだが)。
枕崎にて
 単純往復も芸が無いので、枕崎への往路はバスに乗った。特急バスの類ではないごく普通の路線バスで、こまめに止まりながら鹿児島市外を抜けると、錦江湾を見下ろす高みへと登って峠を越えた。車内にはラジオがかかっていたが、ニュースが告げる東京での物騒な事件が別世界の出来事のように遠く遠く感じられた。山越えが終わると運転手は車を路肩に寄せ、タバコを吸い始めた。急ぎの客なんて誰も乗っていそうになかった。「ローカルバス」と聞くと、今でもこのバスが思い起こされる。

 2時間もかかって(それでも列車より速い)やっと着いた枕崎は、商店街にアーケードがかかる大きな町だった。しかし、駅舎は相当に古びており、露天のホームは素寒貧としていた。列車の乗客はまばらだった。枕崎からの近距離客が降りると、2両の車内に客は2人だけになってしまった。

 遠く見えていた海をふさいで、眼前に巨大な開聞岳が立ちふさがった。裾野から頂上まで、視界をさえぎる構築物は何も無い。緩くカーブを切り、開聞岳が車窓の後へと去ると小さなホームが現れた。日本最南端の駅、西大山である。
西大山にて
 西大山は大根畑に囲まれていた。夕日に照らされた干し大根が、海まで届くかと思うほど長く長く、一列に並べられていた。畑の中に漬物工場があり、パートのおばさんが沢庵の袋づめに勤しんでいた。ひと気があるのはその工場だけだった。

 正直いつ廃止になってもおかしくない指宿枕崎線が残っているのは、西鹿児島−指宿間が都市間路線として機能しているからに他ならない。6往復(当時)しか設定されていない枕崎側に対し、指宿以北には快速「なのはな」が1時間ヘッドという高頻度で運転されていた。しかも転換クロスシートのキハ200が使用されている。もし、昭和38年に山川−枕崎が延長開業した際にこの区間が別の路線名になっていたならば、三陸の久慈線の如く第3セクター化、いや廃線になっていたに違いない。

 もっとも「なのはな」は、僕が乗りに行く直前に鹿児島近郊区間が各駅停車となりスピードダウンしてしまった。しかも現在はこの快速、朝夕にしか運転されていない。磐石と思われた西鹿児島−指宿間にも、どうやら鉄道離れの波が訪れているらしい。

 ところで、「時刻表2万キロ」第3章で気になることが一つだけ。

 筑豊線群に乗った12月30日のくだりで、宮脇氏は「八本の未乗線区に初乗りする予定〜」と書いている。が、何度数えても12月30日に消化した未乗線区は7本しかないのである。まさか数え間違えたとも思えない。2回に分けて乗った日田彦山線をダブルカウントしているのだろうか。その辺り、どなたか明快に解説してくれる方がいれば是非聞いてみたいところなのだが。


(つづく)

2003.7.12
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