四半世紀後の2万キロ・第4章


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
美祢線
山口県
JR西日本 ※1
1976.1.17
未乗
宇部線
山口県
JR西日本
1976.1.17
1997.8.23 ※3
小野田線
山口県
JR西日本
1976.1.17
1997.8.23
可部線
広島県
JR西日本 ※2
1976.1.18
2002.11.3
岩日線
山口県
錦川鉄道
1976.1.18
未乗
        ※1 一部廃止。   ※2 今秋一部廃止見込。   ※3 小郡−宇部新川を除く。


 「珍しく女房が、また行くの、と言った。」

 風邪を引いたにもかかわらず、調子に乗って九州旅行から半月後に出かけた宮脇氏に対して、奥様の反応はつれない。それにしても短くも良く出来たセンテンスで、読者はこれだけで宮脇家の日常生活について様々な想像を巡らすことが出来る。もしこの文章が「また行くの、と怒った。」だったり「また行くの、仕方がないわね、と言った。」だったりすれば、かえって魅力は減殺されてしまう。推敲に推敲を重ねた、「省略の美」の極致の文章がここにある。無駄に文章の長い誰かさん(僕だ)も爪の垢でも煎じて飲まねばならない。
小野田線クモハ42
 前章に比べると6線区(なぜか山陰本線仙崎支線だけはタイトルから省かれている)と小ぶりな紀行となっている。しかもスケジュールの出来は良くない。この時宮脇氏は、実際乗車した6線のほかに西は九州の筑豊線群から東は兵庫県の高砂線まで多くの未乗線区を候補に挙げ、頭が痛くなるほど時刻表と格闘したらしい。しかしそんなにも煮詰まってしまえば、名案が導き出されることはほとんど無いのではあるまいか。プランニングというのは第一には直感で、そこから時刻表により改良が加えられていくものだと僕は思うが、頭痛がしてくるようではもう駄目である。と言いつつ、僕もしばしば頭痛に悩みつつ時刻表を血眼で読むのだが。

 さて、本章で取り上げられた路線の大部分は国鉄改革の嵐の中生き残り、地味ながらも現在に至るまで地元住民の足となってきたのだが、ここに来て変革の波が訪れている。

 まずは小野田線。今年の3月に、全国唯一現存していた旧型国電クモハ42がついに引退してしまった。僕が乗車した97年当時には既にビンテージ扱いを受けていた車両で、長門本山駅で降りると右を向いても左を向いても丘を見上げてもカメラを構えたファンがいた事を記憶している。もっとも、"普通の"利用客にとっては車種などどうでもいいのかもしれない。クモハ42の引退で、小野田線の冷房化率は100%になるはずだ。

 より深刻なのは可部線で、可部以北が11月に廃止される。広島近郊区間の高収益のおかげで国鉄時代には廃線指定から免れたが、大阪商人のJR西日本は末端区間の大赤字に目を瞑ってはくれないらしい。

 僕が可部線に乗ったのは昨秋で、既に廃線は不可避との見方が大勢を占めていた。可部行の通勤型電車は立客が大勢いたけれども、可部で乗り継ぐディーゼルカーはさほどの混雑ではあるまいと僕は思っていた。ちょうど紅葉のシーズンではあり、三段峡行には「三段峡ハイキング号」という愛称が付けられていた。しかしそれは定期列車(実際にはスジは時刻表通りではなかった)に愛称が付されているだけで、臨時列車でも何でもない。おそらくは2両編成で、座席がさらりと埋まる程度だろう。
三段峡
 ところが可部に着いて驚いた。隣のホームには4両もの黄色いDCが連なり、既に通路まで老若男女がぎっしりと詰まっていたのである。やっとの思いで車端部の吊革を確保したが、皆目的地は同じだから終点三段峡まで1時間半座れないのは間違いない。全国的には無名な(失礼!)三段峡へ、各駅に止まりながらとろとろと走る鈍足列車に、これほどの乗客があるとは思ってもみなかった。広島県には他にレジャースポットがないのだろうか(かなり失礼!)。

 時に25km/h制限と言うとんでもないカーブを切り抜けたりしながら、列車は徐々に山間へと分け入っていく。加計を過ぎると長いトンネルが続くが、外へ出るたびに天候は悪化し、とうとう三段峡に着く頃には土砂降りになってしまった。

 三段峡の駅前には土産物屋や弁当屋、レストランが何軒も並び、列車や観光バスからの下車客で活況を呈していた。しかし雨はやむ気配がなく、ハイキングを断念して折り返し列車に乗り込む人もいた。もとより僕は可部線に乗りに来ただけなので、手近な場所でちょっとだけ紅葉を愛でて広島へ引き返す。

 加計まで戻ると雨はやみ、下るにつれて地面から水気がうせていく。どうやら三段峡だけが土砂降りのようだ。朝の予報では広島県は晴れ、山口県は雨だった。広島県どん詰まりの三段峡は、気象的には既に日本海側なのかもしれない。

 折り返し列車は空気輸送同然で、4人掛けボックスに足を投げ出して車窓を堪能する。太田川の広い流れに沿い、ゆるやかに坂を下るローカル列車は、外から見れば一幅の絵であったことだろう。のんびりと、あるいは退屈。しかしその退屈さにこそ普段着の可部線の魅力があるのだ。しかし、こんな贅沢な旅が出来るのも、あと数ヶ月でしかない。


(つづく)

2003.8.10
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