四半世紀後の2万キロ・第2章


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
鶴見線
神奈川県
JR東日本
1975.10.25
1992.夏


 前章の北陸旅行の後、未乗線区の散在ぶりに愕然とした宮脇氏は、これからは遠くに行きたいなどと浮つかず、地道に方面別の乗りつぶしを進めていこうと決意を新たにする。まずは地元から、と言うことで氏が向かったのが、京浜臨海部を走る鶴見線である。

 乗車前に宮脇氏が、鶴見線に期待をほとんどかけていなかったのは間違いない。乗車記も氏独特の淡々とした筆致で綴ってしまっているので、うっかりすると、鶴見線は首都圏のちょっとだけ毛色の変わった小路線程度なのかな、という印象を読者に与えてしまう。

 ところがこの路線、実際には宮脇氏の相当のお気に入りとなったようだ。その後「お気に入りのローカル線」や「気になる駅」といった文章を書くたびに、鶴見線とその枝線の終着駅海芝浦の名が登場することになる。「遠くに行くばかりが旅ではない」という氏の主張には大いに肯かされるところであるが、それはこの時の鶴見線乗車に発想を得たものと解してよい。そういった意味では、「時刻表2万キロ」のなかで際だって短いこの第2章は、実は紀行作家宮脇俊三にとっては大きな意味を持っているのである。

 …なんか偉そうな書き方だな。(ひとりごと)
海芝浦1992
 さて、僕自身が鶴見線に乗ったのは高校生の頃である。宮脇氏にとっては地盤固めであっても、乗りつぶしに目覚め始めたばかりだった僕にとっては、鶴見線初乗りは一大イベントであった。当時の鶴見線は、大川支線専用で残っていた旧型国電が、休日昼間になると運用効率化のために海芝浦行にも共用されていた。「あの」海芝浦へ旧国で行けるばかりか、大川へ行く際は本線の線路上で入換(スイッチバック)までやってのけていたのである。なんとも幸せな時期に乗りにいけたと思う。

 とはいえ、当時の事をここで記せるほど克明には覚えていない。数え上げてみて驚いた。もう10年以上も昔の話だったのである。あれ以来、鶴見線に足を踏み入れた事は一度もない。そこで僕は、久方ぶりに海芝浦へと向かった。2003年4月19日(土)の事である。

 鶴見駅の鶴見線乗り場は、同じJRなのに京浜東北線と分離されている。専用の改札口は自動化されていたが、鉄骨に覆われた小ターミナルの佇まいは10年前となんら変わっていない。もっとも、ホームに停車しているのはこげ茶の単行電車ではなく、3両編成の103系である。旧国の時代を知っているから、103系が新鋭車のように思えてしまうが、この車両も数年以内に山手線のお古に置き換えられて廃車される。

 昼下がりの車内は、買い物帰りの地元客が何人か乗っているものの、極めて空いている。最後部で、鉄道ファンと車掌が趣味的な話題で盛り上がっている。鶴見線らしい光景ではある。

 どこか懐かしいモーター音を響かせて鶴見駅を後にする。京浜東北・東海道・京急その他の線路群を一跨ぎすると、もう次の国道駅。目の前に座った親子が降り、高架ホームに吹く風に煽られる。にわかに強くなってきたようだ。

 地平に降りると鶴見小野。30分毎の運転間隔、短い駅間距離、すぐに降りていく乗客、どうも電車よりはバスに揺られているような気分だ。はやくも僕が乗る3両目は誰もいなくなった。

 ごとりごとり、と床下で線路が別れる感覚がして本線から分岐すると、車体をきしませつつ浅野に着く。全線工業地帯の真っ只中、というイメージの鶴見線だが、北側には大きな公園があり、利用客が何人か降りてゆく。後で本線の安善駅に行ったら、商店やら住宅やらひと気に満ち満ちていたので驚いた。案外に「沿線住民」が存在するようである。
海芝浦103車内
 さて、海芝浦行の電車は、浅野駅構内から右へ急カーブを切る。こちらは真の工業地帯で、工場の敷地を間借りしているかのような埋立地の端っこを、電車は申し訳なさそうにゆるゆると走る。細い運河の対岸では工場が取り壊され、瓦礫の山と化している場所もある。「京浜工業地帯の再生」というフレーズを近年良く聞くようになったが、確かに「再生」が必要なほど廃れてきたのかもしれない。

 新芝浦を過ぎると線路は単線となり、埋立地の角をきっちり90度右カーブする。鉄道模型のようなちまちまとした曲がり方だ。目の前に、京浜運河の水面が広がる。10年前ぬめるように静かだった海が、今日は強風で白く波立っている。

 海芝浦のホームに降り立った客は、10人ほどだった。用務客がいたかどうかは定かではない。鉄道ファンや親子連ればかりにしか見えなかった。下車客は皆、ホーム先にある「海芝公園」へと向かう。「駅出口=東芝工場入口」である海芝浦は、東芝関係者以外は駅から1歩も出られないという点に特色があったのだが、この公園が出来たために、駅ホームから出て行ける場所が出来てしまった。かえって海芝浦の妙味が薄れてしまったような気もするが、工場敷地内に部外者が憩える場所をわざわざ作った東芝はたいした会社だと思う。休日ごとに押し寄せる物見客の対応に苦慮した結果なのかもしれないが。
海芝浦2003
 駅そのものの佇まいは、10年前から殆ど変化がなかった。Suica簡易読取機が3台設置されたのが唯一の変化といっても良かった。半分も屋根がないホームから身を乗り出せば、まさに真下が東京湾だ。今日はことさら、潮の香りが強く吹き付ける。あの時建設中だった吊橋が、京浜運河の向こうに優美な姿を見せている。鶴見つばさ橋であった。

 折り返しの発車待ちの間、ずっとホームに座り込み読書にふける青年がいた。公園には目もくれず、風が強いのに車内にも入らず、何かに思い耽るかのようにいつまでもそこから動こうとはしなかった。あるいは彼が読んでいたのは、「時刻表2万キロ」だったのだろうか。そんな夢想をしつつ、ホーム柵に肘をつく。

 風はまだ、強く吹いていた。


(つづく)

2003.5.11
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