四半世紀後の2万キロ・第1章


 1978年(昭和53年)7月、一人の編集者が作家に転向した。彼の名は宮脇俊三。デビュー作は「時刻表2万キロ」(河出書房新社)。自らの国鉄全線完乗の記録を淡々と綴ったその本は瞬く間に評判となり、宮脇氏は鉄道マニアにとどまらない多くのファンに愛される紀行作家となった。

 僕が「時刻表2万キロ」を初めて手に取ったのは伊勢原市立図書館での事だったから、多分中学生の頃だろう。タイトルだけは聞いた事があったので借りてみたが、横浜線や西寒川線といった、当時僕の興味対象であった都市路線についてほとんど書かれていなかったのでガッカリした記憶がある。

 しかし、2度・3度と繰り返し借りて読むにつれ、次第に僕は宮脇氏の世界へと魅了されていった。ローカル線にも乗るようになった。乗りつぶしに手を染めるようになった。オホーツクに流氷も見に行った。本業の仕事で辣腕を振るいつつ、趣味にのめりこむ姿に憧れた。そして、旅行記もどきの駄文さえ書いてこんなホームページを開くに至った。

 かように僕に(そして多くの鉄道ファンやもの書きに)大きな影響を与えた宮脇俊三氏が2003年(平成15年)2月26日、永眠された。

 この文章はレクイエムではない。書評でもないし、多分旅行記でもない。人によっては「僕は宮脇氏の足跡をこんなにもたどっているんだぞ」という自慢のように受け取ってしまうかもしれないが、そんなつもりで書こうとも思っていない。ただ、「時刻表2万キロ」について、そしてそこで取り上げられたローカル線について、思うところを思うまま、最終章の気仙沼線まで書き連ねていきたい。


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
神岡線
富山県・岐阜県
神岡鉄道
1975.9.24
未乗
富山港線
富山県
JR西日本
1975.9.24 ※
1997.8.6
氷見線
富山県
JR西日本
1975.9.24
1997.8.5
越美北線
福井県
JR西日本
1975.9.24
未乗
※ 東岩瀬−岩瀬浜を除く。


 4線を取り上げた第1章のうち、やはり印象深いのは富山港線である。神岡線からの帰路に列車を乗り間違え、富山から線路に沿ってタクシーを飛ばした挙句間に合わずに末端の1駅を乗り残す、というエピソードは、国鉄全線完乗というオアソビにこの人が本気になっているさまが良く現れていて実に可笑しい。なまじっか本人が大真面目であるだけにとても可笑しい。
富山港線
 この時タクシーが駆け抜けた道路を、僕はバスに乗って通った事がある。と言っても氏の足跡を辿ろうとしたわけではなく、北陸旅行で泊まったユースホステルへ向かう路線バスが、たまたまその道路を経由したに過ぎない。富山の市街地をうんざりするほど迂回し、ようやく北陸本線をくぐったバスは、住宅が切れ目なく続くなかを、左手に富山港線の線路をちらと見つつ淡々と進んでいった。これが宮脇さんが通った道路なのか、と周囲に目を凝らしたが、格別何かがあるわけではなく、作中のように頻繁に信号に引っかかることもなかった。

 富山港線には翌朝、岩瀬浜から乗った。交流電化が主流の北陸エリアにおいて、離れ小島の如く直流電化のこの線には旧型国電が使われていた事もあったが、この時は北陸本線と共用の交直流電車だった。しかし、2つドアの中距離型車両は駅間距離の短いゲタ電的な富山港線を走るにはいかにも窮屈そうで、もうちょっと適材適所な車両運用は出来ないものなのかと憤慨した事を良く覚えている。

 その後富山港線の車両運用は変更されたが、中距離電車に代わってやって来たのはなんと単行気動車のキハ120だった(朝夕は電車らしい)。あの時乗った電車が富山市街への買い物客で混雑していたことを考えると、はたしてあんな小さな車両で大丈夫なのかと不安になってくる。あるいは、キハ120で運べてしまうほどに、現在の富山港線の乗客数は減ってしまっているのだろうか。

 この線の車両の変遷はこれでもまだ終わらない。聞く所によると、JR西日本は富山港線と岡山の吉備線をLRT、つまり路面電車にしてしまおうと考えているらしいのだ。突拍子もない発案だが、富山港線にとっては、確かにこれくらいが分相応なのかもしれない。
氷見線
 氷見線にも、同じ旅行の際に乗っている。風光明媚な海際をいく路線だとばかり思っていたら、それはごく一部で、特に高岡寄りは行けども行けども工場ばかりで面食らった。貨物線を跨いだり、分岐したり、実にめまぐるしい線であった。が、正直この線の印象は薄い。乗車時に、間違えて同じ高岡から出る城端線に乗りかけてしまったほどに薄い。伏木港の向こう岸を走る、加越能鉄道(現・万葉線)の廃れ具合の方が強く印象に残っている。

 あとの2線に僕は、いまだ乗っていない。もたもたしているうちに越美北線は、終着の九頭竜湖と岐阜県の白鳥を結ぶバスが廃止され(らしい)、単純に往復乗車するほかない盲腸線と化してしまった。バスにせよ鉄道にせよ、失われた路線は2度と戻ってこないのが常であるから、今更地団太踏んでもどうしようもない。僕も一刻も早く全線完乗を目指したほうがいいのかもしれないが、楽しみは後々まで取っておこうと、今のところはまだのんびりとしている。

(つづく)

2003.3.25
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