天空列車の行先は  〜パックツアーでチベット瞥見〜 


▼ 第3部 標高4,749mの高みへ(与圧なし) 

 2007年9月22日(土)、念願のポタラ宮観光を終えたバスは、朝来た道を戻り始めた。あれあれ、このままじゃホテルまで戻っちゃうぞ、と首をかしげていると、果たしてラサホテルの前庭へとバスは乗り込んだ。扉が開いて、一人旅のNさんが立ち上がった。

「えー、これ以上は皆さんにご迷惑をおかけしますので…」

 西寧で既に高山病の症状を呈し始めていたNさん、青蔵鉄道の車内では興味が体調を上回ったらしく元気そのものだったが、列車から降りるやぶり返したらしい。今朝はホテルで点滴を受け、せめてポタラ宮だけはと歯を食いしばってきたのだが、ここでドロップアウトである。

 悲壮な顔つきで降りていったNさんに、ツアー客から同情の声が上がる。が、その裏で計画されていた極秘プロジェクトを、その時の我々はまだ知らなかった。

 バスは再び中心部へと取って返し、一角の路傍に停車した。行程表によれば「郷土料理」の昼食で、辛くない中華風料理といった感じの大皿が並ぶ。カレー風味の味付けもあり、インドが近いせいかなと勝手に想像する。

 旅も4日目で毎食毎食円卓を囲むから、自然と話は盛り上がり、「ホームページとか持ってるの?」と訊かれてしまった。訊かれれば嘘はつけないので頷くほかはなく、一同は熱心に僕のH.N.をメモに取る。おかげでこの旅行記、同行者を肴にした毒を吐きづらくなってしまった(とその時は思ったが結局存分に書いている)。満腹になった所でタイミング良く印鑑売りが現れて、言葉巧みにセールスを展開する。印鑑は中国土産の定番で、我が家にも出張帰りの父から頂戴した高い(と思っている)角印があるのだが、つい買ってしまう。

問答修行  午後も引き続き、ラサ市内の名所めぐりである。ガタガタと工事中の道路で大揺れして、セラ寺にたどり着く。境内にバスのままぐいぐい入り込むが、じきにすれ違いに難儀するようになって下車。ちょっとだけ歩くといかにもチベット的なお堂が現れた。日本なら国宝か重文になりそうな建物だが、目の前を観光バスの駐車の列がふさいでいる。僕達もその一因だから何も言えないが、複雑な光景ではある。

 なおも奥に進むと、塀の向こう側から大勢の話し声が聞こえてきた。辺りの静寂を破るかのような賑やかさである。これが「問答修行」なるもので、砂利敷きの中庭にえんじ色の法衣を纏った若い修行僧が集まっている。3〜5人くらいの車座の中で1人が立ち上がり、何事かを問いかけて勢いよく手を打つと、他の僧が答えを返す。やっている事は禅問答のようなものらしいが、厳粛さは感じられない。皆底抜けに明るい。変な回答をした少年僧を、兄貴分がなんじゃそりゃと笑いながら小突いている。

 一方、僧院内部は対照的に静まり返っていた。ぶらぶらと歩いていると、どうも閉館時刻らしく、老僧が後から「ハヤクハヤク」と日本語でせきたてた。

 セラ寺を後に、市街中心部らしき地点でバスを降りる。わっと周りに人が増え、はぐれないように人波をすり抜けると、露天が連なる広場へと出た。浅草仲見世のような賑わいである。ぎらぎらと強い日差しが降り注ぎ、人いきれと暑さに音を上げたツアー客から、背中にかけてくれとミネラルウォーターを手渡される。

 広場の正面に鎮座する平べったい建物は、チベット仏教の総本山とも称されるジョカン寺だ。熱心に五体投地を繰り返している信者の間をすり抜けて内部に入る。寺院最奥の釈迦堂は、現地ガイドCさんによれば開いていない日も多いそうで、今日は運が良いとの由。金色のお釈迦様に失礼の無いよう、丁寧にお参りするが、ここでも後からお坊さんがせきたてる。

 釈迦堂を抜けても、延々とお堂は続く。西寧以来お寺ばかりだから、ツアー客一同はガイドの説明を聞き流すばかりではある。そうした所に、後からチベット人参拝客が現れ、賽銭台(チベット寺院には賽銭箱は無く、仏像や零塔の前には裸現金が散乱している)の現金をむんずと掴んであっという間にその場を立ち去った。なんだなんだ、賽銭ドロか?と唖然としていると、「おつりを持ってったんです」とCさんが言った。成程、ある意味合理的ではある。

 ジョカン寺の周囲には、いかにもチベット的な白壁の商店がぐるっと続いていて、バルコルと呼ばれるラサ随一の繁華街を形成している。夕食のレストランはそのバルコルに面しているらしく、一行は雑踏の中に足を踏み入れる。どこまでも続く伝統建築。民族衣装を纏った浅黒い顔つきの人々がマニ車を振り回し、五体投地を繰り返す。
バルコル
 ああ、異国に来てるんだと感傷に浸るには充分な光景だが、ちょっと引っかかる。バルコルは宗教上の理由から時計回りの一方通行のはずである。と言うか、今まさにCさんがそう説明している。僕達は逆周りだ。

「え、マズいんじゃないですか?」とツアー客から不安の声が上がる。

「大丈夫ですよ」とCさんはまるで平気な顔だ。が、すれ違う人々の中には僕達に不審な目を向ける者も居た。

 レストランは「民族舞踊を鑑賞しながらチベット料理を」との触れ込みだったが、いかにも観光客向けで正直感心する内容ではなかった。帰りは同じ道をバスまで戻ったので、僕達はロの字状のバルコルのうち、右側の1辺を往復したに過ぎない。この手の街並みは大好きで、じっくり鑑賞したかったのに残念でならなかった。旅行社としては人込みに顧客を野放しにしたくは無かっただろうし、ツアーである以上止むを得ない結果ではあった。

***

 9月23日(日)。今日は郊外のヤムドク(羊桌雍錯)湖までバスで往復する。

 ホテルのレストランは、今朝も欧米人向けの音楽がかかり欧米人向けのメニューが並んでいる。が、ドリンクバーにチベットを代表する飲料「バター茶」を発見、おっかなびっくり口をつけてみる。

 …あー、バターとお茶ですね。これはちょっと無理。

 そんな一幕があってバスに乗り込むと、今日もNさんが見当たらない。心配していると添乗員さん曰く、「当初からの予定で、今日から別行動となります」との事。はて。

 バスはホテルを出ると、ポタラ宮とは逆の南方向へと走り始めた。沿道の家々は徐々に軒が低くなり、やがて途切れる。そろそろ市街地も終わりかな、と思っていると右手に真新しい住宅街が現れた。

「チベット人のために、人民政府が作った住宅です」とCさん。要するに、現地人を中心部から追い出しにかかっているわけか。

 複雑な思いで住宅街を見送ると、左から川が寄り添ってくる。幅が広く、水量が豊かな大河だ。河原が狭い代わりに中州が大きく、黄色く色づいた木々が川の真ん中で生い茂っている。両岸の岩山は険しく、時折現れる集落は土色にくすんでいる。しかし背の高い街路樹が立ち並び、前方と川面だけ見ていればヨーロッパの田舎かと錯覚するさわやかな光景である。

 が、間違いなくここはアジアだと確信させるのが、運転の荒っぽさである。エンジンは唸りを上げ、遅い車はためらい無く追い越し、隙あらば横断しようとする歩行者を蹴散らす。我がバスが殊更乱暴なわけではなく、どの車も皆、それぞれのペースで抜きつ抜かれつの猛レースを展開している。

 「プファ」と軽いクラクションが幾度も鳴らされる。中国慣れしたひさめ氏によれば、この国のドライバーは日本人と違って、躊躇い無くばんばんクラクションを鳴らすが、その代わり、音自体は軽いのだと言う。確かに警告と言うよりは、合図程度の意味合いで鳴らしている感がある。が、時々追い越しをかけた対向車が目の前に迫ってきて、本気でブレーキがかかったりする。

 1時間も走った頃だろうか、左手へ高速道路のような立派な橋が分岐した。ラサ空港への取付道路らしい。なんでこんなに離れた所に、と首をひねるばかりだが、ラサ空港は中国の空港の中で最も市街から遠いらしい。誰が測ったのかは知らないが、ガイドブックにはそう書いてある。
峠道にて
 空港道路を分岐した先でなぜか検問があったが難なく通過。なおも川沿いの街道を進む。沿道にはぽつりぽつりとドライブインらしき施設が現れ始めた。なおも1時間は進んだだろうか、ようやくバスは左折し川を渡る。峰の向こうに、万年雪を纏った高山が見え、「チョモランマか?」と声が上がる。方角的にはありえないが、そう信じたくなるような神々しい姿をしている。

 バスは川沿いを離れ、登りにかかり始めた。「まもなくトイレ休憩を…」と声がかかる。この辺りのドライブインと契約でもしているのだろう、と思っているとバスは停まった。坂道の途中で。

 …えっと、ここでどうしろと。いや想像はつきますが。

「女性はあっち側で。」あ、やっぱり。

「これも経験よね」となぜか嬉々として道路を渡っていくツアー客一同。いやー、女って強いなあと感嘆していると、数百メートル向こうの集落からとてとてとてと男の子が二人駆けてきた。あどけない顔立ちに、皆思わずカメラを向けてしまう。お礼にお菓子をあげると黙ってはにかんだ。

 動き出したバスは、男の子の家があると思われる集落を通過する。河岸段丘の中に、畑と古い民家が広がり、菜の花とコスモスが一緒に咲き誇っている。桃源郷のような光景である。

 集落を過ぎると道はにわかに険しさを増した。眼下の谷は見る見る深くなり、高度を上げた沿道からは樹木が消える。しっかりとした舗装道路ではあるが、路肩にガードレールはなく、途切れ途切れにコンクリートブロックが置いてある。カーブのたびにツアー客から歓声とも悲鳴ともつかぬ声が上がり、時折シュコーと酸素ボンベを吸う音も聞こえてくる。行く手の切り立った山肌に、どこまでもどこまでも道筋がつけられていて、ゴマツブ大の車が前を行くのが見える。

 やがて高みへ達したバスは、ゆっくりと尾根をまたぐ。次の瞬間、全員から声が上がった。眼下にエメラルドグリーンの水面が広がっている。ヤムドク湖である。バスは尾根上の駐車場へと入る。ここがカンパラ峠、標高は4,749mにも達する。ラサから1,000m以上登ったのだ。

 青蔵鉄道で超えたタングラ峠より多少低いとは言え、今度は与圧無しの生身の体である。酸素ボンベを抱えて、おっかなびっくり駐車場に降り立ち、深呼吸をしながらそろりそろりと歩き始める。空気は薄いと言えば薄いが、息苦しさを覚えるほどではない。どうも予想外に、高地に強い体らしい。

ヤムドク湖 振り返れば今走ってきた道が、羊腸の如く下界へと続いている。行く先には神秘的な雰囲気を纏うヤムドク湖。峠の頂上にはオボ(石塚)があり、無数のタルチョ(旅の安全を祈る布切れ)が巻きつけられている。浮世離れした光景である。ただし、周囲にはヤクやチベット犬を連れたオッサンがウロウロしていて、盛んに記念写真を勧めてくる。勿論有料である。

 一同すっかり感動して車中に戻る。それではいよいよ湖へ、と思ったらなんと、バスは今来た道を引き返すではないか。「ヤムドク湖へのピクニック」と言われたから湖畔でお弁当でも広げるのだろうと想像していたのが、「ヤムドク湖を"眺める"ピクニック」だったらしい。

 バスはそろりそろりと山道を降り、先ほど「休憩」した桃源郷を下に望む路傍で停まった。この辺で景色を眺めながらお弁当、という算段らしく、紙箱が手渡される。「こっちが景色がいいですよ」とガイドのCさんに案内されるが、そこは水際のジメジメした場所。皆めいめいに場所を探し、僕達は集落を見下ろす路傍にしゃがみこむ。時折車が轟音をたてて通過し、ひさめ氏の座る目の前にはヤクの糞が転がっている。

 暫くすると、集落から親子連れが登ってきた。子供はあちこちに散らばったツアー客の顔色を覗き込み、残り物を頂戴する。添乗員さんやガイド達は、追い払う風も静止する風もなく、むしろにこやかでさえある。何だろうと思っていると、一同のゴミをその場に残したままバスは走り始めた。最初からそういう段取りだったのか、その場で話がついたのかは定かではない。

 この後は「チベット族の民家訪問」らしい。どこに行くのかと思っていると、バスはすぐに停まった。何の事は無い、件の「桃源郷」である。あっという間に昼食場所から、子供が駆け下りてきた。

 民家の中からは、お婆さんが1人出てきた。Cさんによれば「中の上の普通の民家」との事だが、壁に海外の観光客の写真が沢山貼ってあり、その点においては「普通」ではない。庭には怪我をして放牧できない羊が1匹、そして中央にパラボラアンテナのような丸みを帯びた鉄板が掲げてある。これで太陽光を集めお湯を沸かすらしい。なんとも野生的だが、一方で応接間にはワイドテレビが鎮座していて、薄暗い家の中で燦然と輝いている。お金があればまず欲しいのは情報端末、という事なのだろ う。

 お婆さんはツアー客1人1人にバター茶を振舞う。今朝痛い目にあったばかりなので、付き合い程度と思って口をつける。

 …美味かった。ホテルのそれとは全くの別物である。思わずおかわりを所望してしまった。

 玄関の前には、集落の子供達が集まっていた。躾が行き届いているのかお婆さんが実は怖い人なのか、敷地内には決して入ってこようとはしないが、外に出るやわっと寄って来て物欲しそうな目を向ける。"money"と手を差し出す子さえいる。勿論お金はNoだが、先程までの流れでお菓子は渡してしまう。段々進駐軍みたいになってきたな、と気にかかりだした頃、「あんまりあげない方がいいですよ」と添乗員さんが止めに入った。

 走り出したバスは、集落をゆっくりと抜けていく。往路では桃源郷のようだと感動したし、窓に映る眺めの素晴らしさは何も変わらない。だけど、青蔵鉄道開通を契機とした急激なチベットブームの盛り上がりの中で、村人達は、純朴であったろう子供達は、観光客をお金を落とす存在として認識しつつある。果たしてこれから、あの桃源郷はどうなってしまうのだろうか。甚だ無責任ではあるが、彼らの瞳がこれ以上¥マークに染まることの無いよう、願う他はなかった。

 川沿いの街道に戻ったバスは、再びスピードを上げ始めた。車中ではCさんが土産物の販売を始める。朴訥としたCさんの人柄は皆の受けが良く、土産は殆ど売切れてしまう。「私、今日は良い商売しました」とCさんはホクホク顔である。

 ラサに戻ったバスは、じゅうたん工場の前で停まった。工場長または社長らしき人が現れて、はた織り機と向き合う女性の前で得々と喋る。伝統工芸を担う彼女達の年収は20万円弱。それに対し商品価格は数十万円以上と著しく高い。ツアー客は誰も手を出さず、勧められるままにお茶を飲むばかりだ。これで商売になるのかとも思うが、どこかに買う人はいるのであろう。

 それにしても今日は随分写真を撮った。十二分に持ってきたはずのフィルムの在庫が心もとなくなってきた。困ったなあと思っていると、バスは時間調整なのかポタラ宮広場で停まった。売店をのぞくと、ちゃあんとコダックが置いてある。もはやラサは、秘境ではない。

 ホテルで小休止。向かいの「超市」(スーパー)で土産を買ってから、ホテル脇の歩道に並んだ露店を冷やかす。「店」と言っても、チベット人の爺さん婆さんが歩道上に民芸品を広げただけの簡素なお店である。マニ車を模した、小さなストラップがある。1個5元との事。

「2元!」「ああ、いいとも」半値に値切ったのに即答である。この辺までは想定内か。

「じゃあ…」同じストラップを7つ掴み取る。「これで10元」

 いやいやいや、とオバサンは渋い顔で思案した後、倍の14個を選り分けて「20元」と言い放った。それじゃあいらない、と立ち上がると腕を掴まれた。結局6個10元で妥結して、帰国後親類中に配り歩くこととなる。

 ラサ最後の夕食は、例によって豪勢だった。誰からともなく、「あの子達に食べさせてあげたいわ」とため息が出た。

***

 9月24日(月)、早朝に目が覚める。妙に体が重い。酸素ボンベに手を伸ばすが、2度、3度と吸い込んでもスッキリしない。遅まきながら高山病の症状が出始めたのかもしれない。青蔵鉄道で迎えた朝には調子の悪かったひさめ氏は、じきに慣れたらしく、隣でぐうぐう寝ている。

 悶々と寝返りを打つが、さして気にはしていなかった。ラサとは今日でさよならなのである。

 帰路は列車ではなく、飛行機を利用する。成田で貰った航空券には記載がなく、つまり中国東方航空ではないわけだ。旅行会社の行程表にも便名は無く、午前中に成都(チョンドゥー)に着く事になっている。出発前に調べたら、中国国際航空に7時20分発の便があるが、これだと恐ろしく早起きを強いられる。

 で、結局の所どうだったかと言えば、成都着は午前中ではなく12時30分、ラサ発は10時50分と大した事は無かった。それでもモーニングコールが鳴ったのは6時半で、眠い事に変わりは無い。

 バスは昨日ヤムドク湖へと向かった道を再度走り、空港への分岐を過ぎると速度を一段と上げた。大河を真一文字に渡り、そのまま長いトンネルに突っ込む。明らかに、チベット内の他の道路とはお金のかけ方が違っている。

 真新しい空港ビルディングは、多くの中国人と外国人で雑踏していた。出発案内を見れば、成都行はなんと20分間隔で続けざまに飛び立つらしい。青蔵鉄道は開通したけれど、やはり航空が担う役割は大きい。ただし、周囲にチベット人の姿は見当たらない。チベットの現地ガイドCさんだけでな く、初日の西寧から一緒だったWさんもここでお別れだと言う。にわかに寂しくなってしまった。

 CA4404便はほぼ満席でラサ空港を飛び立った。チベットの大地は見る見る遠ざかり、眼下に延々と山脈が連なる。所要わずか1時間40分、薄曇りなのかスモッグなのか、乳白色に煙る中を降下すると成都である。むっとした空気がまとわりつく。標高は500m、下界に降りてきたなと実感する。

 ご丁寧にも成都でも現地ガイドがついて、バス車中で延々と喋る。大仰なゲートをくぐって高速道路に入り、市街へ差し掛かると自動車販売店がやたらと目につく。日本車に比べ中国車は安く、40〜50万円程度で手に入るのだと言う。それでも、あのラサのじゅうたん織りの女性達が買える金額ではない。

 町なかは人と自転車とバイクと車で膨れ上がっている。路線バスが道路にひしめき合い、クラクションが響く。沿道には真新しい、あるいは建設中の高層マンションがずらりと並ぶ。どれも警備員や高い塀、堀までも巡らして厳重な体制をとっている。考えてみれば、中国の大都市(成都の人口は1,044万人)を訪れるのはこれが初めてである。思わず車窓に釘付けとなってしまう。

 バスが横付けされたのは、著名な麻婆豆腐店の前だった。歩道には、パンダのぬいぐるみを売りつけるオバチャン達が集まっているが、スルーして2つに分かれた円卓に着席。若いS女史は双方の卓から引っ張りだこだが、僕達に声はかからない。料理は日本人好みで、素晴らしく美味だった。ちょっと出来すぎの感もある。

 ところで、ラサで行方をくらましたNさんであるが、添乗員さんの弁によれば、なんと成昆鉄道(成昆鉄路)に乗りに行ったらしい。なるほど、そんな手もあったのかと感心する。昨日のピクニックが印象的だったからラサに留まった事を後悔はしないが、それはそれでちょっと羨ましい。とは言え、単独行程分は勿論自腹だし、ツアー代も減額されない。そんな事情をひとしきり喋った後、

「あ、この話内緒にしといてって言われてたんだった。」

 何たるお茶目さん、と苦笑しているとNさんが戻ってきた。
武候祠
 食後は武候祠(ウーホウツー)を散策。三国志ゆかりの史跡で、いかにも中国の公園といった風だが、チベットツアーとしてはそぐわない感じがした。そのまま空港へ戻って、18時発の中国東方航空MU5412便で上海に向かう。成都から直行便で帰国するか、ラサから直接上海に飛べばいいのに妙な行 路で、これでは麻婆豆腐を食べるためだけに成都に来たかのようである。

 20時30分、上海浦東空港着。とうとう上海まで戻ってきた。とうに陽はとっぷりと暮れ、磁浮列車(リニア)は運転を終了している。今日は移動ばかりで疲れたし、明日は早起き確実である。すぐにでもベットに転がり込みたい気分だが、ご丁寧にもこれから夕食である。

 迎えの現地ガイドは段取りが悪く、蒸し暑い駐車場の片隅で延々とバスを待つ。上海ほどの大都市になると、観光客が多く扱いもぞんざいになるかのかなと思う。やっとの事で冷房のガンガン効いたバスがやって来て高速道路を飛ばしに飛ばすが、市街地に入ってからの動きがどうにも怪しい。いきなり切り返しを始めたりする。道、分かっているのだろうか。車内の雰囲気は実に気だるく、重たい。

 ところがどっこい、いざ食事を始めると飲めや食えやの大盛況となった。まったくもって皆元気である。こんな夜中に給仕せねばならぬ従業員も大変だが、帰りがけにさらに日本人団体がやって来たのには驚いた。既に23時を回っている。

***

 最終日、9月25日(火)の起床は5時半である。寝ぼけ眼でバスに乗り込むと、辺りには西洋建築がちらほら目に付く。旧租界地区に泊まったのかもしれないが、何も調べてこなかったしガイドブックも無いので皆目分からない。

 やがてバスは高速道路に入る。左手に磁浮列車の高架橋が併走している。カーブに差し掛かると、路盤は壁かと思うほど急角度で傾く。鉄軌道では考えられないようなカントで、さすがリニアと感心していると、後から列車がやって来てあっという間にバスを追い越した。あまりに一瞬で、カメラを取り出す暇さえなかった。どうやらコイツに乗るために、もう一度中国へ来なくてはならないようである。

 前方に空港ビルが見えてきた。旅ももう終わりに近い。添乗員さんが口を開いた。

「ここで皆さんに、謝っておかないといけない事があります。」

「実は私、チベット初めてでした。」

 ツアー客一同から、どっと温かい笑いが起こった。途中から何となく、そんな気はしていたのである。

 搭乗待合室は日本人で雑踏していた。土産物店でハルヒのカセットテープを発見。しかしケースに描かれた画は、どうみても西又葵のタッチである。国際空港の売店でバッタもんが売られているとは思わなかった。中身が気になったが、さすがに購入は自重した。

 9時10分、中国東方航空MU523便成田行は中国の地を離れた。あとはもう、帰るだけである。

 うとうとしているとスチュワーデスがやって来て、隣のひさめ氏にアンケートを手渡した。顧客満足度向上を目指す意図は良いのだが、手渡したままその場を立ち去る気配を見せない。目の前で書けと言う事らしい。

 暫くの沈黙の後、ひさめ氏は「接客態度は"とてもよい"」にマルを付けた。刹那、「ありがとうございます」と彼女は極上の笑みを浮かべたのであった。

(おわり)



◇あとがき

 思いもかけず乗る事となった青蔵鉄道。その車窓は想像以上に浮世離れしていました。茫漠と果てなく続く大地、手を伸ばせば触れられそうな真白き雲。どこか非現実感さえ漂う、不思議な感覚でした。出発前に体調が悪かったことなどすっかり忘れ去ってじっと風景と向き合ったあの時間は、穏やかでとても貴重なものでした。

 しかし、そうまでしてたどり着いたラサの街は、中国に飲み込まれようとしていました。ポタラ宮を取り巻くのは、中国風の中小ビル群。中心部のチベット建築は大改装され、ガラス張りのブランドショップが入居。デパートの品揃えも全く普通で、日本アニメのビデオすら置いてありました。

 中国「進出」の象徴である青蔵鉄道に乗って来た僕が言うのも傲慢な話ですが、ラサはもはや中国の一都市であるように旅行者の目には映りました。長き闘争の歴史を経て、もはやチベットの人達はあきらめてしまったのではないか。そう思えてなりませんでした。

 だからこそ、翌2008年3月の暴動には強いショックを受けました。きっと彼らは、ずっと我慢して我慢して、そしてハジケてしまったのでしょう。未だチベットは、火種を抱え続けています。彼らにどうか、平穏な日々を−あの郊外の「桃源郷」で出会った、子供達の表情が忘れられません。

 そして中国も、成都を省都とする四川省が災厄に見舞われてしまいました。あの街の活気と熱気を思い起こすにつけ、そのバイタリティをもって早期に立ち直る事を願って止みません。

 いずれにしてもチベットは、日本人がお気楽に遊びに行ける土地ではなくなってしまったようです(当時からそうだったのかもしれませんが)。今となっては公開するのも若干躊躇われるこの旅行記ですが、在りし日の物知らずな紀行文としてご笑納頂けますと、作者としては喜ばしい限りです。


2008.8.9
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