天空列車の行先は  〜パックツアーでチベット瞥見〜 


▼ 第2部 標高5,072mの高みへ(与圧つき) 

 西寧を出発した青蔵鉄道N917次の車内は、喧騒を極めていた。2007年9月20日(水)、辺りは既に暗い。

 硬臥車の車内は、ほぼ満席である。最後方の数ブロックを中国人のグループ客が占め、次いで僕達、その前方にも中国人や日本人の団体客がぎっしりと乗っている。空きがあるのは前方の2ブロック程度と言ったところ。中国人も含め、皆観光客のように見える。念願の青蔵鉄道は、まだ出発したばかり。当然乗客のテンションは高く、飲み屋のような賑わいを呈している。

 そんな人込みをかき分けて、車掌がやって来た。まだ若い、女性の2人組である。車両の中央に陣取り、甲高く何事かを叫び始める。無論中国語だ、分かるはずも無いが最後の「謝謝!」だけは分かった。聴衆からやんやと拍手が沸く。

 ツアー客は皆西寧のスーパーで何かしら買ったらしく、あちこちでオツマミや缶ビールが飛び交っている。ありがたい事に僕の手元にも隣のブロックのオバサマから1本回ってきたが、そっと反対側のブロックに差し入れておく。ここで飲んで高山病になるのは勘弁である。神経質かもしれないが、用心は過剰なほどにしておいた方がいい。何せ台風が接近しても頭痛が起きるのだ。世間一般より気圧変化に弱いんじゃないかと言う予感はある。風邪も引いたばかりだ。

 ビールの代わりに取り出したのは、Asahiの「酸素水」である。出発前日に添乗員さんから勧められた酸素濃度の高い飲料水で、会社帰りにコンビニを徘徊して、3店目のサンクスでやっと見つけた。高地旅行にはうってつけだが、まさかそのために販売しているわけではないだろう。味としては、格別の物は無い。半分以上は気分の問題だ。

 22時に車内消灯となる由なので、頃合を見て3段ベッドの上段によじ登る。日本の寝台車のように、窓際にハシゴがあったりはしない。入口脇に2段の小さな踏み台があって、中段ベッドに手を掛けながらよっこらしょと勢いをつけなければならない。登れば登ったで、天井は水を飲むのも難儀な程に低かった。カーテンも無いが、低いながらも柵があるのが唯一の救いか。昨日ひさめ氏が買った高山病の漢方薬を1本拝借してから就寝。

***

 例によって例の如くだが、夜行列車ではどうにも熟睡できない。いつの間にか9月21日(木)の早朝となってしまったようだ。中段・下段の人達が何事かしゃべっているのをぼんやりと聞き流す。

 やがて列車は緩やかに減速して停止した。時計を見れば午前6時台である。所定ならば7時頃に格爾木(ゴルムド)に着いて機関車を付け替えるので、それまでには何としても起きなければならない。まさか早着したわけではないだろうが、心配になってきたので通路に下りてみる。

 列車は駅に停車していたが、駅前に並ぶ住宅はわずかで、裏側に至っては一面草原である。どう考えても格爾木ではない。対向ホームの駅名標は、まだ暗くて読み取る事が出来ない。車内も真っ暗である。

 1人旅のNさん他何人かは既に起きていて、テーブルにはごついデジカメが置いてある。大草原をひた走る車中から見上げる星空は、それはそれは素晴らしかったそうだ。話し声はそれだったのか。起きればよかったと臍を噛む。

 やがて信号場のような箱型の駅舎から灯りを持った駅員が出てきて、上り線を長い長い貨物列車が通過する。ようやくこちらも発車か、と思ったのだが列車は動かない。徐々に辺りは明るくなってきた。Nさんと目を凝らして、駅名標の文字は「東格爾木」だとの結論に達する。とすれば恐らく次が、機関車付け替え駅の格爾木か。

 時刻は7時を回り、明らかに列車は遅れている。遅れればそれだけ明るくなり、格爾木での写真が撮り易くなるは結構なのだが、8時過ぎまで遅れると朝食の時間にかかってしまう。混雑する食堂車の予約に奔走した添乗員さんには悪いが、折角の格爾木で食堂車に監禁されたのではかなわない。

 やきもきしていると、後方から列車の迫る気配がしてきた。どうやら追い抜きも行うらしい。通過線を轟然と駆けていったのはなんと旅客列車である。駅数が少なく車種も統一されている青蔵鉄道の長距離列車に列車種別(優先順位)があるとは、思ってもみなかった。
格爾木駅にて
 ようやく列車は動き出し、人家がにわかに増えると格爾木着。青蔵鉄道には「停まるけど車外に出られない」という妙な駅が随分とあるのだが、格爾木では珍しく外に出て、機関車の付け替えを眺める事も出来る。なんとしても降りなければならない駅なのである。

 一眼レフを掴み、向かいのベッドのひさめ氏に「格爾木着いたよ、機関車替えるよ」と声をかける。

「私の分まで見といてくれ」とくぐもった返事。おや、どうにも元気がなさそうである。

 格爾木駅のホームは2面。屋根は無く広々としている。まだ空は、夜の暗さを残している。上着を羽織ったが、さすがに少々肌寒い。

 僕達が乗っているのは最前方に近い3号車だが、既にクリーム色重連のディーゼル機関車は切り離されていた。代わりに客車と同じ緑色をした機関車が2台、背中合わせに繋がれてやって来る。背高でどこか中国国鉄らしからぬ風貌だが、これが高地区間専用の機関車で、米国GE社製の新鋭である。ちなみに客車はカナダ製で、メーカーは何と、車輪の出ない航空機を作るボンバルディアだ。ご自慢の与圧装置とやらは、ちゃんと効くのだろうか?

 駅員の誘導で連結は無事終了したが、まだ発車する気配は無い。乗客が三々五々と降りてきては、記念写真を撮っていく。駅裏の留置線を、貨車が1台ずつゴロゴロと勝手に走っている。日本ではもう見られないヤード方式だ。この国ではまだ、鉄道が物流の主役なのだと実感する。

 向かいのホームには、先ほど我がN917次を追い抜いたと思しき客車列車が停まっている。サボを見れば「広州−拉薩」。4,980kmを56時間かけて走る、中国最長距離列車である。これに乗るプランも有力だったのだが、列車に丸3日もかけてしまうとチベット観光の時間が無くなる。さすがに今回は、人並みの物見遊山をしたかった。最長距離列車をまず見送り、こちらも発車である。日本人の団体が最前部のブロックに入り、3号車は見事満席となった。

 ここからが昨年開通した区間で、列車はあっさりと枯野と言うべきか、砂漠と言うべきか、とにかく大平原の中へと飛び出した。茫漠とした眺めに唖然としていると、岩山が見る見る近づいて線路が右へ左へカーブする。

 朝食の予約時間になり、編成中ほどの食堂車へ向かう。同じつくりの硬臥車を何両か通り過ぎると、硬座車が現れた。1列6席、編成中最も値段の安い座席車である。

 途端に空気が変わった。まず匂いが違う。こもったような匂い、臭いと言っては決していけない。日本人には日本人の、中国人には中国人の匂いがあるように、硬座車の中はチベットの匂いに満ちていた。硬臥車では全く見かけなかった、カラフルな衣装を身にまとった浅黒い顔立ちを幾人も見かける。もちろん中国人も多い。中には白人の女性も居て、周りをチベット僧にぐるりと囲まれながら身振り手振りで会話している。

 4人掛けのテーブルが並ぶ食堂車は、壁もテーブルも白く清潔だった。注文する間も無く小皿が運ばれてくる。おかゆと、漬物をスパイシーにした感じの付け合わせがいくつか。飲物は別料金なので、皆ペットボトル持参である。西寧の食事に比べれば明らかに少ないが、今までが飽食過ぎるのであり、美味しく頂く。ひさめ氏も見た目元気そうで、誰1人寝込むことなくきちんと食べる事が出来たのは喜ばしい。
車窓
 列車は相変わらず、岩山の間を右へ左へ彷徨する。迫ってきた雪山は玉珠峰(ユィチューホン)、標高は6,178mに達するそうだが、とてもそうは見えない。景色が雄大すぎて尺度が狂っているし、そもそも線路自体の立地が半端ではない。車内の電光掲示が示す標高は、とっくに富士山頂を越えている。

 雪山が後に去ると、見渡す限りの草原となった。この辺りは野生動物が見られるらしいので、一同車窓に目を凝らす。が、そう易々と現れないのが野生の常であるから、じきに飽きる。一人、二人と窓際から離れて、ごろりとベットに横になる。

 得てしてそんな時に、草むらからシカらしき動物がぴょこんと跳ね上がったりするものである。「見えた!見えた!」と大声が上がって慌てて起き出しても、もう遅い。なぜか窓辺に張り付くのは奥さんで、カメラを片手に飛び出してくるのは旦那と決まっている。「ずっと見てなきゃダメなのよ」と笑われたりする。

 やがて山肌が迫ってきて、標高がぐんぐんと上がる。線路の両側には時折、シャーペンを逆さまにしたような棒が突き刺さっている。地中の永久凍土の融解を防ぐための仕掛けらしい。現れたトンネルが風火山隧道、凍土トンネルとして世界一の高さ(4,958m)に位置するそうで、土木学的には大偉業なのだろうが、長さは1.4kmにも満たないのでありがたみは薄かった。

 通路に表示される外気温が、20℃近くになってきた。朝は一桁だったから急激な上昇だ。太陽が近いから日差しの影響をもろに受ける、という事らしい。雲が明らかに低い。誰が名づけたかは知らないが、「天空列車」とはよく言ったものである。

 車内販売のワゴンが回ってきて、昼食。ごく普通のコンビニ風弁当だが、さすが中華でぴりりと辛くて美味。と言うか、中国に来て以来何を食べても美味しい。こんなに健康でいいのだろうか。

 やがて長大な鉄橋を、列車はゆっくり渡り始める。眼下は川というより沼の如く、水溜りが延々と続いている。これが沱沱(トト)河で、長江と黄河とメコン川の全ての源流となっているらしい。なんとも大風呂敷な話だが、ガイドブックには確かにそう書いてある。

 沱沱河を渡れば、いよいよ列車は鉄道の世界最高地点、唐古拉(タングラ)峠に挑み始める。じりっ、じりっと電光掲示板に現れる数字が大きくなってくる。 4,800…4,900…そして遂に、電光表示は5,000mを超えた。まもなく進行方向左側に、最高地点を示す記念碑が現れるはずである。既に窓には、同室者が何人もカメラを構えてへばりついている。6人全員が張り付けるほど大きい窓ではない。僕はデッキに向かった。
最高地点
 峠と呼称されてはいるが、辺りに山間の雰囲気は微塵も無い。薄茶けた緩い起伏が広がるばかりである。N917次は上り坂にあえぐことも無く、前へ前へと疾走し続けている。どこかお墓にも似た白い記念碑が現れ、あっという間にファインダーから消えていく。ここが世界最高地点で、5,072mの高みに登りつめた訳だが、どうにもあっけない。

 だがボンヤリしている暇は無い。下り坂に転じたと言う感覚もないまま、列車はすぐに駅に差し掛かる。世界最高所の駅、タングラ(5,068m)である。何としても駅舎と駅名標の写真は収めたい。ゴトリとポイントを通過する音が足元から伝わり、再びカメラを構えた。シャッターに手をかけたその瞬間、目の前に飛び込んできたのは−対向列車の長い長い編成だった。

 これでは何も見えない!なんというオチか、と唖然としていると客車の列が途切れた。どうも前寄りに随分詰めて停まっていたらしい。どうにか駅舎を眺める事が出来たが、列車はスピードを一切緩めることなく、あっという間に駅を通過した。延々と我が列車の通過をここで待ったに違いない、向こうの乗客が実に羨ましい。

 徐々に標高が下がるとは言え、まだ5,000mを超えている。最高地点通過で車内の雰囲気は一気に沸き立ったらしく、皆が通路に出て電光表示を眺めている。時刻、外気温に続いて標高が中英2ヶ国語で表示されると一斉にシャッターが切られる。僕もさっきまでやっていた事だが、脇から眺めていると奇妙な光景ではある。

 車窓は峠を越える前と何も変わらない。西寧で配られた資料にはご丁寧にも、「このあたりから景色が単調になるので休憩しましょう」と書いてある。素直に昼寝。

 うつらうつらしていると、列車が停まった。どうもアムド(安多)駅らしい。人の動く気配があったので、何事かと通路を見下ろすと、どうも降りられるらしい。そいつは大変だと飛び起きる。何せ朝の格爾木以来、車外に出るチャンスは1度も無かったのである。カメラを抱えてドアが開いてるらしい後の車両に向かいかけると、乗客がぞろぞろと戻ってきた。やっぱりダメらしい。

 ともあれ起きてしまったので、酸素水を飲んだり普通の水を飲んだりしながら外を眺める。西寧で買ったプラスチックのボトルは、気圧変化で歪んできちんと立たなくなっている。砂地の向こうから、広い水面が現れた。ツオナ(措那)湖である。

 エメラルドグリーンの湖は徐々に線路に近づいて来て、やがてぴったりと沿う。列車はスピードを落とし、車掌が通路に出てきてガイド(たぶん)を始めた。この景観こそが、青蔵鉄道最大の見せ場らしい。が、中国語のサッパリ分からないツアー客一同は皆口を揃えた。

ツオナ湖 「徐行するなら、最高地点でやってくれればいいのに…」

 そうなのだ。僕達は世界最高地点を見に来たのであって、ツオナ湖を見に来たわけではない。確かに、だだっ広いだけの唐古拉峠よりこの湖の方が絶景ではある。しかし、観光客の大半は「世界最高」の4文字に誘われてここまでやって来たのだ。日本人だけでなく、中国人も明らかに先程のほうがノリがいい。そう言えばこの列車、記念グッズの揃えも少なく、今朝添乗員さんがピンバッチを6つ買い占めたらもう売り切れてしまった。もっとハッキリと、鉄道マニア向けの商売をしたっていいんじゃないかと思う

 やがて列車はナチュ(那曲)駅のホームに滑り込んだ。例によって例の如く配られた資料を見れば、「ホームには降りられる場合がございますが標高が高い為お薦めしません」とある。そりゃそうなんだが、配った当の添乗員さんは降りる気満々である。ちなみに、ナチュの標高は4,513m。

 勿論、資料の注意書きには誰も従わず、皆わっとデッキに詰め掛ける。暗い通路の向こう、高原のホームに日差しが降り注いでいる。ホームとの段差を埋める、渡り板に足を乗せた。チベット"上陸"まで、あと1歩。

 まさにその瞬間、腕をがしっと掴まれた。驚いて振り向くと、車掌である。僕を車内に押し戻すと、既に車外に出た数人を怒鳴りつけ呼び戻す。発車。唖然呆然である。後で伝わってきた所によれば、列車が遅れたために停車時間を縮めたらしい。これでラサまで、車外に出られる見込みは無くなった。

 夕食も食堂車である。朝はすぐに座れたのだが、予約を取ってあったのに席が空いていない。一日フル回転している間に、徐々に予約時間とずれてしまったのだろう。

 ゆっくり、ゆっくりと日が暮れてきた。沿線には人の気配がぐっと増し、あちらこちらで放牧が行われている。羊もヤクもそこらじゅうに居る。午前中は1頭見ただけでも大騒ぎだったが、そろそろ見飽きてきた。そして何も見えなくなる。

 こうなるとする事がなくなってくる。ひさめ氏と、お互い頭が薄くなってきたねえと、チベットまで来て持ち出すネタとは思えない話で盛り上がる。時折現れる駅の周りには、そこそこの町が形成されている。どこだったかは忘れたが、軍人が大量に乗り込んできた。

 時刻は21時を回ったが、どうせ列車は遅れているのだろう。呆っとしていると、添乗員さんから「定刻に着きますから準備して下さい」と言われる。朝の格爾木では30分以上遅れていたのだから大したものである。が、その影には丸一日車内にカンヅメされた我々の忍耐がある事を中国国鉄はゆめゆめ忘れてはならない。

 列車は極端にスピードを落とした。遥か遠くに、ライトアップされた白い"壁"が見える。ポタラ宮に紛れも無い。とうとうやって来たか、と感慨に耽っているとホームに差し掛かる。天井がやたらに高い。どこか非現実感さえ漂う、大きな駅だ。22時少し前、ラサ着。唐古拉峠からは相当下ったとは言え、標高はまだ3,600mもある。ここからは勿論、与圧無しだ。おっかなびっくり、だだっ広いホームに降り立つ。

 雑踏する駅舎をすり抜けると、真っ暗な駅前広場に出る。巨大な駅舎も、夜の闇に沈んでいた。広場外れの駐車場に停まったバスに乗り込もうとした時、誰かが声を上げた。夜空にうっすらと白く、天の川が浮かんでいた。

 ここで現地ガイドとして、Cさん(正直、名前は忘れた)が加わる。西寧のガイドをしたWさんもついて来ているから、参加者17名のツアーにスタッフが3名も付く格好になった。豪勢な事だと感心してると、添乗員さんが口を開いた。

「実は、予定しておりましたホテルに泊まれなくなってしまいました」

「人民政府の貸切になってしまったのです。こうなっては我々にはどうしようもありません」

 ツアー客からは失笑が漏れた。そう言えば昔、ロシアで会議開催とかち合ってホテルが変更された事があったが、中国も同じく公務優先の国なのだ。僕達が車窓に見入っている間に旅行社側は冷や汗と大汗をかいたに違いないが、代わりのホテルはグレードダウンするので差額は返すと言う。良心的である。

 大きな橋を渡り、市街にさしかかる。既に夜は更け人通りは無い。ライトアップされたポタラ宮が車窓をかすめ、だいぶ走ってからバスは駐車場に入った。英中2ヶ国語でホテルの名が掲げられている。その名は「LHASA HOTEL」。ガイドブックに「ラサでは最高級」と書いてあるホテルではないか。

 事ここに至って、贅沢な旅行をしているという実感が湧いてきた。最高級ホテルにキャッシュバック付きで泊まれるのだから妙に得をした気分だが、このさらに上、となると当初のホテルはどれだけ凄かったのかと思う。

 高山病にはシャワーは良くないらしいが、今の所症状は無いし、約26時間列車に揺られた後なのだからと、軽く浴びて就寝。

***

 9月22日(金)、今日から2日半はラサ滞在である。ちなみに、この先鉄分はほぼゼロになる。

 ラサホテルのレストランは観光客で溢れていた。日本人もいるが、列車ではあまり見なかった白人観光客がやたらと多い。バイキングのメニューはありふれた西洋風で、舌に合うのは結構だが、なんでラサまで来てドレミの歌を聴きながらスクランブルエッグを食べているのかとは思う。

 高地のラサでは日焼け対策が必須で、日焼け止めをべとべとと塗りたくる。懐かしい海水浴の匂いがする。ひさめ氏はより万全で、リップクリームを乗せ、サングラスをかけてチンピラみたいな風貌になった。サングラスはともかく、リップクリームは必要だったとやがて後悔する事になる。とにかく唇が良く乾いたのだ。

 ロビーに下りると、参加者は概ね揃っている。1人旅のS女史に、「クリーム塗ったでしょ。真っ白!」と笑われる。ちょっと気合を入れすぎたようだ。何人かが酸素ボトルを持っていたので、右に倣おうと売店へ。結構高かった。値切ってもくれなかった。

ポタラ宮  バスはホテルを出ると、埃っぽい大通りを進む。黄金のヤク像が鎮座するロータリーを廻ると、中国風の家並の向こうにポタラ宮が姿を現した。観光写真では険しい山中にありそうに錯覚するポタラ宮だが、実は市街地の真っ只中にある。さすがにでかい。こんな所まで来てしまったのだなあ、と感慨に浸るには絶好の大きさである。

 チベットの中枢にして最大の観光名所であるポタラ宮のハードルは高く、入場は完全予約制である。入口ではX線検査があり、酸素は持ち込めない。知らずに来た観光客から没収したボトルが、それこそ山のように入口に積んである。

 ポタラ宮はチベット仏教の中心地の一つであるとともに、政治の地でもある。ダライ・ラマ14世がインドに亡命し中国の不法占領が続くチベットは、政治的には極めて危うい立場にある。西寧のタール寺で、ガイドのWさんは「ダライ・ラマは今海外旅行に行ってて、帰ってきません」と説明していた。ツアー客は苦笑していたが、それが中国人のWさんに言える限界なのだろう。

 ところがラサのガイド、Cさん(この方も中国人である)は、あっけからんと言い放ったのである。「ダライ・ラマは、亡命してます」と。

 おいおい、ボーメイなんて言っちゃっていいのかい、と僕はびっくりした。本土(青海省もかつてはチベット勢力圏だが)から峠を越えてきたWさんと、現地在住と思われるCさんの認識の差だろうか。そっとWさんの顔色をうかがうと、平然と宮殿を見上げている。そう言えばこの人、ラサに来て以来「俺の仕事は終わった」とばかりにほとんどガイドをしない。喋らずに立っていると、すらっとした長身が実にサマになっている。

 岩山に張り付いたかのようなポタラ宮は、階段に次ぐ階段である。駆け上がれば息が上がるのは間違いないし、酸素ボトルはバスの中だ。めいめい自分のペースで登る。こういう時に年齢順にならないのは不思議で、最後尾は列車から降りるとまたも元気の無くなったNさんである。フラフラしているところに携帯が鳴り出して、「こんな所までかけてくるな」と怒鳴っている。IT化も考え物である。

 宮殿内は暗く、バターの匂いが漂っている。観音像や霊塔が並ぶ部屋を幾つも巡り、丁寧な説明を受けるが遺憾ながら記憶は曖昧である。猫がやたらといる部屋があり(鼠対策だそうな)、しげしげと眺めていたら「早く行け」とばかり坊さんに怒鳴られた事は覚えている。長く立ち止まられては困るほどに、押すな押すなの大盛況なのである。入場者の顔ぶれは様々だが、行動様式にはお国柄が出るようで興味深い。

・白人…個人またはごく少人数のグループにもかかわらず、専属のガイドをつけて実に熱心。ただし、撮影禁止箇所でも平気でフラッシュを焚く。
・日本人…何はともあれ団体行動。ツアーも半ばとなると、良くも悪くも人間関係が如実になってきた。
・中国人…やはり団体が基本。日本人との最大の違いは、声がやたら大きい事。
・韓国人…中国人ともども世界のどこでも見かける人達だが、なぜかラサでには殆どいなかった。
・チベット人…彼らにとってポタラ宮は、観光ではなく信仰の場である。

 チベット人は皆、大型のペットボトルに黄色い液体を詰めている。濃い目のジュースかと思ったが、よくよく見ればバターである。マヨネーズを振りかけるかのごとく、灯篭にぼたぼたと継ぎ足している。

 出口が近づくと、巨大な霊塔が並ぶ部屋に出る。奈良の大仏を眺めるが如く、ぽかんと口を開けて佇みたい大きさである。が、そんな暇はどうやら無いらしく、早く早くとCさんは焦り気味である。ポタラ宮の見学は1時間に限定されていて、入場時間もしっかりと記録されている。1分でも遅れれば(これはマジらしい)、ガイド資格を取り上げられて申請のやり直しだそうだ。それは大変とツアー客一同奮起して早歩きをして、数分前にどうやら出口にたどり着いた。

 ほっと息をついて、裏門から駐車場に下る石畳をのんびり下る。街並みの向こうに、ラサ駅舎が見えた。

(つづく)

2008.5.31
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