ポルトガルはヴァカンス日和


▼第3部 シントラの日本人、それとバス騒動とファスナーと

 9月25日(土)の夕刻、ICは定刻から20分も遅れてリスボン・サンタ・アポローニア駅に到着した。わずかばかりの降車客は足早に去ってし まい、駅構内にはどこか空虚な雰囲気が漂っている。コインブラやポルトへ通じる、ポルトガル随一の大幹線の始発駅とは思えない寂しさである。駅はアルファマの丘とテージョ川に挟まれた狭い平地に押し込められている。駅前広場もタクシーがずらりと並ぶばかりで活気はない。

 高速道路ばりに流れの速い車道でバスをつかまえると、丘の中からカテドラルがその堅牢な姿を現した。およそ5分、辺りはようやく中心市街地の気配となりコメルシオ広場着。一角のツーリストインフォメーションに飛び込む。何はともあれ宿を確保しなければならない。

 「この辺でもいいですか?」 係員が指差したのは一昨日飛び込みで断られた宿。あるいはインフォメーション経由ならOKかもと期待したが、やはり満室。それどころか、どこに電話をかけても色よい返事は得られない。リスボンのホテル不足、想像以上に深刻である。

 「あんた、予算はどのくらいなの?」 痺れを切らしたのか、後ろに並んだ客が割り込んできた。「40ユーロくらい」「俺の泊まってた宿、35ユーロだったけど。紹介するから」 そうは言われても、見ず知らずのこの人に全てを委ねるのはまずかろう。口ごもっていると、男は苛立たしげに係員へ向き直った。「なあ、×××という宿なんだが」「それは私共のシステムにはありません」 ぴしゃり。容赦がない。

 10分ほどたってようやく見つかった宿は、コメルシオ広場から歩いてすぐの所であった。ロシオ広場とのちょうど中間地点、下町(バイシャ地区)のど真ん中である。窓を開けても隣のビルの壁しか見えない真っ暗な部屋だが、このロケーションなら文句は言えない。よくぞ見つけてくれたものと思う。

 まだ17時すぎ、夏時間のポルトガルは充分に明るい。疲れてはいるがじっとしていられないのは性分で、寝転がりながらガイドブックを開く。リュック一つで宿を出るとサンタ・ジェスタのエレベーターに向かった。歩いてすぐである。

 バイシャ地区の端っこにグレーの無骨なやぐらが組まれていて、中をアンティークなゴンドラが上下している。これがサンタ・ジュスタのエレベーターで、トラムやバスと共通の切符で乗ることが出来る。長い行列が出来ていて、2便ほど見送ってようやく乗り込む。上階は吹きさらしのテラスになっていて、オレンジ色の屋根が連なるその向こう、こちらと向き合うかのようにサン・ジョルジェ城が夕陽に照らされている。

 本来このエレベータは、下町と台地上のシアード地区を結ぶためにある。シアードの街並みはすぐ目の前に見えているのだが、連絡橋 は封鎖されており、「危険なので通行禁止、ただしエレベータ塔の安全は保障されています」的な注意書きがしてある。…本当に大丈夫なのかなぁ。

新旧トラム フィゲイラ広場にて ともあれ下まで降りて、写真を撮ろうとリュックを開ける。

「ブチッ」…ファスナー脱線。

 随分使い古したリュックで、実はこれまでも同様のトラブルは何度かあった。この旅行が終わったら買い換えようと思っていたのだが、その前に限界が来てしまったようだ。ともあれ、大口を開けた状態で繁華街を歩くわけには行かないから、周りを気にしつつ必死の思いで復旧させる。

 エレベータ足元のカフェで夕食をとっていると、物乞いが寄ってきた。向こう側の日本人のオバサン達の前に立ち尽くすが、彼女達は顔を見合わせるだけだ。諦めた物乞いはふらふらと僕の方にやって来て…背後をスルーすると隣の外国人の前に立った。あーそうですか、金持ってないように見えますか。微妙に悔しい。

 街はようやく、日没間近の雰囲気となった。とどめとばかりフィゲイラ広場から12系統のトラムでアルファマを1周して宿に戻った。なんでポルトガルまで来てこんなTVをと思いつつ、ポンペイのドキュメント番組を興味しんしんに眺め就寝。

***

 9月26日(日)、今日はリスボン郊外のシントラまで日帰り小旅行である。

 シントラへの電車は昨日降りたサンタ・アポローニアではなく、宿から程近いロシオ駅から出る。大屋根がかかり、乗降分離されたホームがずらりと並ぶターミナルは立派だが、乗客の姿はまばらだ。駅の出口はそのままトンネルになっていて、ゴゴゴゴと地鳴りが響かせステンレス車が姿を現す。現在のロシオ駅は、20分毎に近郊電車が発車するだけの駅である。広い構内をもてあましているように見える。

 8時32分(12分発だったかも)、がらがらのシントラ行電車は出発した。トンネルを抜けると、都市近郊の風景が延々と続く。箱型の 中層団地が主体で、駅には落書きもある。くすんだ印象を払拭させるかのように改築したてのピカピカのホームが現れるが、浮浪者が横になっている。あまり雰囲気の良い路線ではない。

 どこまでもどこまでも住宅地が続く。広大な車庫の脇を通過するとようやく雰囲気が変わり、緑に囲まれた邸宅街の中の駅に止まる。やっと旅心地になってきたな、と思うと次が終点シントラであった。リスボンからの所要、42分。

 リスボンからの都市化の波がすぐそこまで迫っているのに、シントラは別世界だった。瀟洒な駅舎の正面は小さな商店や邸宅がつつましげに並び、振り返れば岩山が聳えている。リゾート地独特の清涼な空気が漂っている、ような気がする。

 駅はからは市街地と観光スポットを巡回する路線バスが出ている。20分毎となかなかの高頻度運転だ。運賃は3.5ユーロと高い(リスボンは1.1ユーロ)が、1日乗り放題だからモトは取れるだろう。関西訛りの3人連れがいて、1人が僕の隣に座った。

 バスは駅を出ると、坂を上り下りして町へとたどり着く。メインストリートの左側には建物が階段状に隙間なく建ち、右手には思いのほか普通の外観の王宮がある。建物や街路灯の間にはカラフルなモールが飾り付けられており、華やいだ雰囲気だ。王宮の料金表には、"FREE"と手書きの張り紙がある。今日はお祭りか何かだろうか。

 それにしても、王宮入口は長蛇の列である。数人前に日本人の団体客がいて、列が進んでも意に介さず写真を撮ったりしている。つめた所で入場が早くなるわけではないが、ちょっとムカつく。散々待ってようやく彼らが列の先頭に来たら、今度はいっこうに中に入らない。不審に思って彼らの前まで進んでみると、係員が「通れ」という仕草をした。なんだ、待たずに入れるじゃないか。迷惑な団体客である。

 内部にも日本人団体が随分いて、通路いっぱいに広がって立ち止まっている。説明を熱心に聴くのは結構だが、他の客の流れを塞いでいるという認識は皆無らしい。今までこの種の団体を見かけてこなかったせいもあるが、ここではとりわけ日本人の行動が鼻に付いた。僕でさえそうなのだから、他国の人の眼にはどう映っているのかと心配になる。もっとも、僕自身撮影禁止に気付かず注意を受けたりしたから、「困った日本人」の一派にしか見えなかっただろうが。

シントラ市街 王宮を見に行ったのか日本人を見に行ったのか良く分からないまま町に戻る。お祭り気分の町なかは賑やかで、スピーカーから 大音量で賛美歌や説教らしき声が響いている。どこかの教会の、ミサを中継しているようだ。

 ムーアの城跡に向かうべく巡回バスの停留所に立ったが、なかなか来ないのでパンを買いに行く。まだ来ないのでインフォメーションに入り、トラムの時刻を訊いてくる。それでも来ないのでパンを食べ始める。まだ来ない。20分間隔のバスが30分待っても来ないとは、どういうことだろう。いつの間にかバスを待つ人の数は、「群集」と呼べるほど膨れ上がった。これでは乗り込めるかどうかも覚束ない。僕は歩く事にした。

 狭い坂道をしばし登ると、町は嘘のように静まり返った。写真を撮ろうとして、またもリュックのファスナーを壊す。直し方も手馴れてきた。やがて路地裏の風情となり、迷い道になっていないか不安になった頃、公園風のゲートが現れた。無人の回転扉を押し、黙々と登る。

 随分登っておおいにくたびれ、ようやく尾根道へと合流した。どうやら城跡の中ほどにぶつかったらしい。頂上を目指して最後のひと踏ん張り。8〜9世紀にムーア人が築いたこの城からは、市街が一望できるはずである。木々の間から城壁と城門が姿を現した。くぐろうとして、傍らに立ったオジサンに止められた。ポルトガル語で何か言っている。

"You need ticket." 近くに座っていた観光客が助け舟を出す。

"OK.How much?" "No,No" どうやらこのオジサン、入場券を改めるだけで売ってはくれないらしい。じゃあどこで、と問えば駐車場で売っているとの由。駐車場を経由せずに来た徒歩客の都合は考慮されないらしい。今から戻って、またここまで登るのは結構難儀である。

「ムーア人のことなんて知るかっ!」

 心の中で悪態をついて、僕はそのまま城跡を後にした。バス 停へ向かう道すがら、駅からのバスで隣に座った関西人のオジサン達がやって来る。ベタ遅れのバスで来て、チケットを手に登っているのだろう。

 次なる目的地、ペーナ宮殿へも同じバスで向かう。先ほどオジサン達が乗った便が出たばかりだから、次も当分来ないのだろう。やれやれと思って待っていると、オジサン達が戻ってきた。「どのくらい待ってる?」「17〜8分くらいですかねぇ」「よしよし、もう来るでしょ。」と機嫌が良い。

 ところがバスは来ないのである。時刻表から勘案すれば、この巡回バスは3台で運用されているはずだ。しかし現実に は、20分間隔のバスが40分待っても来ない。どうやら、遅れているというレベルではなさそうだ。1台だけで間引き運転しているに違いな い。

 痺れを切らした僕は、また歩く事にした。オジサン達はもう少し待ってみるという。バス停からは緩やかなカーブを描く登り坂だったが、すぐに道は下りに変じた。木々の間から駐車場を見下ろす。ペーナ宮殿の駐車場だった。何のことはない、歩いたら5分しかかからなかった。

 ここも今日は入場料を取らない。ただし入口から城の前まで走る城内バスは、ちょっと坂を上るだけなのに1.5ユーロも取る。観光地価格だなあと思う。色合いも建築様式もごった煮の城は作り物感がバリバリに漂っていたが(建造物なのだから作り物に決まっているが)、市街や大西洋を見晴るかす眺望は素晴らしかった。

 城内バスで入口まで戻ると、なんとしたことか駅へ向かう巡回バスが今出発していくところである。入れ替わりに城へ向かうオジサン達を見送って、アイス(これもまた高かった)をなめつつ次のバスを待つ。どうせ1時間は待つんだろうなぁとげんなりしていると、オジサン達が戻ってきた。歩いても歩いてもバス組に追いつかれるが、もうアハハと苦笑するしかない。

 「さあて、いつ来ますかねえ」などと話していると、通りすがりのタクシーから声がかかった。ここまで客を乗せてきた帰りらしい。値段交渉をまとめたオジサンから「君も乗ってくか?」と声がかかる。車は急坂を下ると、狭い街中をすいすい走り抜けてシントラ駅前にたどり着いた。

 「ちょっと飲んでこうや」と駅前食堂で一献。フランスからポルトガルへと飲兵衛紀行を楽しんでいるのだそうで、「職業は言えないな。だから君にも聞かない。」とのたまって不敵に笑う。ニコニコしているけど揃って眼光は鋭く、「元・山○組関係者」という冗談を僕は本気で信じた。

 テーブルにはイワシの塩焼きをメインとした大皿が鎮座している。魚料理に苦手意識を持つ故今日まで手を出さなかった名物料理だが、素朴で実に美味しい。日本でも口にしないポルトワインをちびって、「うわっ」と正直に顔をしかめる。紹興酒のような甘ったるさだった。

 今日は日本人に翻弄され、日本人に世話になった不思議な一日だなとしみじみ思う。存分に観光し存分に飲み食いしたが、実はシントラ探訪の目玉はまだ残っている。駅前でオジサン達と別れ一人坂道を下っていくと、そこにシントラ・アトランティコ軌道の乗り場がある。マサス海岸へと下る観光鉄道だ。

 道端に線路が敷かれただけの始発駅には、まだトラムは現れていない。しからば「走り」の写真を撮ろうと、並行する車道を少し下ってカメラを構える。渋滞気味の車列の中から、興味深げな視線がこちらに向けられている。サーファー風の若者達から陽気な声がかかり、手を振り返す。

 折り返し海岸行の発車時刻(17時25分)を随分過ぎて、ようやくシントラ行電車が姿を現した。オープンデッキのアンティークな単車が、急坂を意外なほどの勢いで登ってくる。写真よりも動画に撮りたい、可愛らしい動きである。1枚、2枚とシャッターを切って駅まで駆け戻ると、後ろからもう1台続行してきた。窓も壁もある普通の車両(しかし時代物)だが、先頭座席を確保する。

シントラ・アトランティコ軌道 全ての座席が綺麗に埋まった状態で、トラムはゆっくり走り始めた。急坂だからノッチは入れず、ブレーキだけでそろりそろ りと下ってゆく。ヘアピンカーブに差し掛かると、オープンデッキ車両が300mくらい後ろを続行してくる姿が見える。

 やがて道は真っ直ぐになり、勾配もいくらか弱まる。線路と道路の両側には背の高い街路樹が並び、夕陽にほんのりと染まっている。民家の軒先スレスレをすり抜けると、犬が猛然と吠え立てる。対向電車が待避所につつましげに停車し、僕達の到着を待っている。軽井沢に江ノ電が通じたかのような、爽やかな雰囲気である。

 なおも風景は広がり、左前方に赤く染まった大西洋が見え始めた。ぽつぽつとサーファーらしき人影が見える。いかにもシーサイド然としたショップが現れると終点マサス海岸。シントラから45分もかかっているが、全く退屈しない道のりだった。

 ずっと運転士脇にいた少年が、慣れた手つきでポールを逆向きに付け替える。ただの鉄道少年に見えるが、運転手がサービスでやらせているのか、それともアルバイトか。折り返し便はシントラ行の終電となり、すでに電停には長い列が出来ている。今度はオープンデッキ車両に乗ろうと席を探していると、立ち席ながら最後部デッキを確保してしまった。特等席である。

 ごとり、と台車が転がりだす感覚がじかに伝わってきた。落とされまいとぐっと力が入る。カーブではぐいと揺れるから、思いのほか緊張する。件の少年はと言えば、車体裾の踏み板を軽やかに移動して空席を見つけ、途中の電停から乗る客を案内している。立派な車掌さんである。

 近郊電車でリスボンへ戻る車中、ウトウトしている間に日が暮れた。

***

 9月27日(月)、ポルトガル最終日。朝食で一緒になった風邪気味の日本人にルルを進呈してチェックアウトした。

 ポルトガルから日本に直行便はない。どのエアラインも接続が良いとは言えず、KLMでは朝の6時の飛行機に乗らなくてはならない。その中で15時30分発というエールフランスの設定は、最上のものと言って良い。今日も存分に観光できる。

 フィゲイラ広場から37系統のバスに乗る。ごく普通の黄色い大型バスは、トラム12系統の経路を逆回りしてアルファマのカテドラル前を通過し、電車通りから外れると物凄い勢いで石畳の急坂を登り始めた。おいおいっ、と驚いていると城壁と売店が現れてサン・ジョルジェ城に到着。

 サン・ジョルジェ城はリスボン随一の観光名所だが、手持ちのガイドブックでは治安について結構脅かしてある。それで今まで回避してきたのだが、やっぱり行きたくなってしまった。中に入れば観光客とお掃除のオバサンがいるばかりで、特にどうという事もない。眺望はまったくもって素晴らしく、オレンジ屋根の中に突き出したサン・ジェスタのエレベーター、4月25日橋を渡る電車、何もかもが見渡せた。

 電車通りまで戻って28系統マルティン・モニス行のトラムに乗る。旧型車がアルファマを縦貫する、観光客に人気の路線である。お馴染みとなった黄色い単車は12系統の経路を逆方向にしばし進むと、もっとも標高の高い辺りでぐいと右折した。ありえない急カーブ下り勾配で12系統と別れると信号機がある。道幅が狭まり、上下線4本のレールが上−下−上−下と互い違いに並んでいる。これではすれ違えない。やがてそのスペースさえもない路地へとトラムは突っ込み、線路は単線となった。建物にこすりそうになりながらキリキリとカーブを繰り返す。

 複線に戻ると坂を上って活気のある広場に着く。これでアルファマの狭隘路は終わりかなと思っていると、もう1箇所上下線が別々の道路を通る地点があった。キー、ゴゴゴゴと坂を下りきると大通りに飛び出す。メトロの入口があり、インテンデンテ駅に違いない。あとはこの道路を堂々走るだけだからここで降りる。

ピッカ線ケーブルカー 今来た道を徒歩で引き返し、随所随所でカメラのシャッターを切る。どこで構えても絵になるが、肝心の電車はなかなかやって来ない。諦めて移動したり、立ち位置を決める前に猛然と電車が通り過ぎて悔しがったり。行動様式は国内にいる時と変わらないが、やはり幸せである。

 12系統との合流点付近まで戻って、再び28系統の客となる。カテドラル前を下って谷底のバイシャ地区を横切り、向かい側シアード地区へ猛然と坂を上っていく。賑やかなカモンエス広場を横切ると、左手にケーブルカーの架線がちらりと見えてここで下車。

 リスボンの3本のケーブルカーのうち、テージョ川を見下ろすここビッカ線はしばしば映画等に使われるらしい。某カード会社のCM「ポルトガルで飲んだ何か〜」に出てくるのもこの路線である。ケーブルカーを待つ人、自分の足で登ってくる人、バルコニーには洗濯物がはためき、犬が顔を出す。麓までぶらぶら歩いて、登りのケーブルで引き返す。

 そろそろ時間がなくなってきた。焦っている時に限ってトラムは現れず、ようやく来たと思ったら大混雑である。やっとの事でバイシャまで戻って、雑貨店で土産代わりのクッキーを大量に買い込んだ。ロシオ広場の空港バス乗り場には白人観光客が何人もいるが、暑さにうだっているのか皆座り込んで行儀が悪い。トドメとばかり、この期に及んでまたもリュックのファスナーが脱線する。やれやれと復旧に取り掛かる。

 「ブチブチブチッ」 裂け始める布地、折れ曲がる金具。…やばい。悪化してる。日本まで持つだろうか。

 バスの中でやっとの思いで応急処置をし、荷物を入れ替える。あとはパリでちょこっと観光するだけだから、フィルムやガイドブックも預け荷物に入れてしまおう。手続きを済ませて軽いリュック一つだけになると、なんだか少し気楽になった。搭乗フロアのX線検査を難なく通過し、そこでハタと気付いた。

 フィルム、預け荷物に入れてしまって大丈夫だろうか?

 物騒な昨今の事である、預け荷物のX線は手荷物より強力かもしれない。一応X線防止ケースには入れているが(それはそれで不審物扱いされそうで問題だが)、一度生じた不安はどす黒く広がっていく。トラムやケーブルカーの写真を大量に撮った今回の旅行、もし全部駄目になってしまったら…慄然とした。嫌な汗が背中を伝う。心臓がバクバクしたまま飛行機に乗り込む。スチュワーデスに訊いてみたいが、的確な英文が浮かばない。だいいち、「駄目ですよ」と答えられたところで今更手の打ちようは無い。

 15時30分、AF1625便シャルル・ド・ゴール行は定刻通り動き出した。「写真おしゃかになってたら、もう1回来てやるからなこん畜生ぉぉぉ…!」 胸のうちで絶叫するうちに、機は南欧の大地を離れた。


(おわり)



◇あとがき

 味も素っ気も無く、そのくせ文量はいつも通り膨大なポルトガル旅行記、丹念にお読みいただいた方はお疲れ様です(笑)。

 はるばる彼の国を訪ねて驚かされたのは、実に観光客が多い、と言う事でした。バイシャ地区のレストランにはヨーロッパ中の言語のメニューが揃えられ、ホテルはどこも満室。ポルトガルはずっと快晴だったのに、帰路立ち寄ったパリには5日前と同様の冷たい雨。ああなるほど、南欧ってバカンス適地なんだなと実感させられました。

 しかし裏を返すと、現地の人々のナマの姿、というのはイマイチ見えてこなかったのですよね。そこが2年前の韓国秋夕紀行と決定的に違って、物足りなさも感じました。遠くへ行くばかりが旅ではない−痛切に身にしみました。もちろん、およそ180枚に及んだ写真が物語るように、実に充実した旅ではあったのですよ。

 とりあえず次はどこへ行くか。現時点では全く白紙です。案外、懲りずに渡欧するかもしれません(汗)。

 え?成田からの帰りは結局バスにしたのかって?そういえば初日にそんな話書きましたね…。


凱旋門
 19時00分(ポルトガル時間18時)パリ着。接続に余裕があるので、折角だから初めてのパリ市街に出てみることにする。RER(近郊電車)を2本乗り継いでシャルル・ドゴール・・エトワールで下車し、凱旋門広場を一周。ハンバーガーを食べ、エールフランスバスで空港に戻った。

 さしものシャルル・ド・ゴール空港も22時を回れば人影まばらであったが、搭乗口付近だけは日本人とラテン系の人々でごった返している。極東と南米、要するにやたらと遠距離の便が深夜に回されているわけである。出発は定刻の23時25分から少々遅れ、なおかつ誘導路上で10分以上待たされた。

 そして遅れは、翌夕の日本にそのまま持ち越された。相模大野行のリムジンバスもスカイライナーも出発してしまい、さてどうやって帰ろうかと僕は途方にくれた。


2005.1.8
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