船で渡る沖縄、 バスで巡る沖縄 〜後編


 横浜からほぼ2日、ようやく初めての沖縄に降り立った。2006年5月4日(木)、本部港は強い西日に照らされている。既に17時を回っており、今日は ここ本部で泊まる。予約済みの宿は、港の真ん前。すぐ見つかった。

 「民宿 ハワイ」 初めての沖縄の初めての宿として、 ちょっとどうなんだと言う名前ではある。

 近寄ってみると、ハワイの屋上には鯉のぼりがはためいていた。ますます国籍不明である。半地下のアパートのような部屋に通され、早速クーラーを入れる5月とはいえ、その程度には暑い。風呂は無く、シャワーと手洗いが同居している(ユニットバス、と言えるようなモノではない)。沖縄では住宅でも家賃が安いとシャワーだけらしいから、安宿ならばまぁこんなもんなのだろう。

 「ケケケケケケ」と妙な鳴き声が部屋に響いた。見ると壁に、トカゲのような生き物が張り付いている。ははぁ、宮脇俊三「ローカルバスの終点へ」(新潮文庫 1991年)の沖縄紀行にあった「ヤモリの鳴き声」ってのはこれか、と妙に納得する。

 夕食まで近所を散歩。鬱蒼とした木々の茂りは、明らかに内地のそれとは違う。併設ドライブインで沖縄料理の夕食。何を食べたか忘れてしまったが、オリオンビールを飲んだ事ともずくが出てきた事、そしてこの後、沖縄のありとあらゆるお店でもずくが出まくった事は覚えている。

***

 明けて5月5日(金)。食堂のTVではみのもんたが熱弁をふるっている。丸2日間列車と船に揺られても、朝番組の司会はいつもと一緒である。なるほど、ここは確かに日本だ。

 さて、沖縄観光の開始である。まず目指すのは海洋博公園内にある「美ら海水族館」。水族館の裏話に満ちた中村元「水族館の通になる」(祥伝社新書 2005年)によれば、「世界最大の水族館」と思われるほどの大きさだと言う。昨年同書を読んで以来、すっかり行きたくなってしまったのだ。

 海洋博公園は、民宿と同じ本部町内にある。歩けはしないが、バスに乗れば20分もかからない。が、このバスが問題なのである。

 本部町には、名護から65・66系統(本部半島線)と70系統(備瀬線)という3つの路線バスが通じている。しかしいずれも本数は少ない。それどころか、半島線の大半は公園に寄らず、内陸部の国道449号線をスルーしてしまうのだ。僕にとって美ら海水族館は首里城と並ぶ観光の目玉だが、世間的にはそう ではないのだろうか。ガイドブックの表記も「浦崎交差点から車3分」ときわめて冷淡だ。

 地図や時刻表との悪戦苦闘の結果、宿最寄の停留所を8時42分に出る65系統に乗ることにした。この便は公園を経由しないが止むを得なかった。直通バスは12時07分まで来ないのである。

 沖縄本島には沖縄バス・琉球バス(現・琉球バス交通)・東陽バス・那覇バスの4つの路線バス会社がある。系統番号や時刻表・運賃制度は一体化しているので、その意味では使いやすい。半島線は琉球と沖縄の共通運行で、やって来たのは沖縄バスだった。白いボディに濃淡2色の青いラインが、いかにも沖縄らしい装いだ。運転手もかりゆしでキメている。

 バスは前後2扉だったが、後部ドアの前に立っても扉は開かない。慌てて前扉から乗り込むと、後部ドアのステップはふさがれて、イスが並べてあった。使わないのに後部ドアがあると言う事は、本土からの譲渡車に違いない。過当競争気味の4社の中で唯一倒産経験が無い沖縄バスだが、それでも経営は厳しいのだろう。

 すぐに本部町中心部へと差し掛かる。入口に建つのはマックスバリュで、全国共通の赤い看板がまぶしい。しかしやがて現代建築など消え失せ、コンクリート 造りの堅牢な建物 がぐるりと交差点を取り囲んでいる。傍らには、古墳のごとき立派なお墓もある。これを異国情緒と言わずに、何と言おう。"日本"にもこんな所があるのだ。

 8時53分、浦崎着。海洋博公園への道路が分岐するだけの、何の変哲も無い交差点である。ここからはタクシーに頼るほか無い。上手くつかまるだろうか、と思いながらバスを降りると、なんとまぁ、目の前にタクシー会社の営業所があった。初乗り450円、これは安い。 あっと言う間に公園内の駐車場まで運んでくれる。
美ら海水族館
 水族館の開館は8時半である。すでに人垣ができ始めている入口付近の展示はスルーして、先へ先へと進むと、どどーんと馬鹿でかい水槽が現れた。アクアブルーの海の中をジンベイザメが2匹、悠々と泳いでいる。幾匹ものマンタが腹をぺろーんと見せながら、壁を登っていく。開いた口がふさがらない、とはこの事だ。とんでもないスケールなのである。

 ガラスに近づいてみたり、脇に回ってみたり、映画館のように階段状となった観覧席に上ってみたりと存分に楽しんでみる。これだけ大きいと、水槽から離れた方がかえって凄さを実感できるようだ。後から後からお客さんが詰め掛けて、じきに満員御礼の盛況となった。

 外に出れば、いかにも南国的な日差しがじりじりと照りつけている。海の輝きもまた、形容しがたい美しさである。イルカや海亀の水槽までじっくり眺めて公園を出たのが11時少し前。駐車場を先頭に大渋滞が発生している。朝イチに来たのはやはり正解だった。

 今日の宿泊地は那覇だが、直通のバスは無いからまず名護へと出る。次のバスは11時01分発の70系統であるが、見ての通りの渋滞である。どうなることかと思っていると、定刻を過ぎてから反対車線にバスが来た。終点からここに戻ってくるまで、ずいぶん時間がかかりそうである。幸い、11時10分に66系統がやって来る(本数が少ない割に続行ダイヤなのである)。渋滞とは逆方向に本部半島を循環する系統だから、さして遅れはしないだろう。

 案の定、70系統が戻ってくる前に66系統が2分遅れでやって来たので手を挙げる。沖縄のバスは、手を挙げないと止まらない。(ガイドブックやネットに散々そう書かれたのが悔しいのか、どのバス停にも「手をあげなくても止まります」と注意書きがしてある。後に那覇で手を挙げずにバスを待っていたら、ターミナルに近い停留所だったせいもあろうがやっぱりスルーされた。)

 バスは空いていて、観光客はほとんど見かけない。その代わり停留所ごとにおばぁが乗ってきて、「70番は連休だから運休かい?」「いや、遅れてるんです」という会話が強烈な沖縄弁(再現不可)で繰り返される。70系統と66系統は本部町中心部内の経路が違うので、降り間違えたおばぁを周りの客が一斉に引き止めたりもする。そのたびに車内は喧騒に包まれる。おばぁもおじぃも兄い兄いも、沖縄の人は皆バスが大好きらしい。

 バスは海岸道路を淡々と走り、沖縄のメイン道路である国道58号とX字状に交差すると名護市街へ入った。正面から70系統のバスがやって来た。向こうの方が近道をするから、追いついてきたようだ。商店街を抜け、名護十字路を越えるとバスは2度右折し、海岸沿いを逆方向に戻り始めた。先ほど通過したX字路をもう1度渡って、11時55分名護バスターミナル着。十字路から後は回送便同然の経路であった。

 バス運賃は距離制・後払いであるが、GW期間中はフリー乗車券が発売されている。3日間本島のほぼ全路線乗り放題で1000円という、破格の設定である。ただしバスターミナル等の主要拠点でしか売っていないから、本部から沖縄上陸した僕は当然持っていない。宿から記念公園までが240円、そして名護までは790円もするのであって、いかにも勿体無い。しかもバスが止まったのは、事務所の目の前である。

「今日って、フリー切符発売してるんですよね?」「そうですよ」

「…そこで売ってるんですよね?」「ええ」

 さすがに運賃をオマケしてくれるほど、甘くは無かった。790円払って事務所へ向かう。案内所というより運転手詰所のような雰囲気で、おっさんが2人談笑していた。

「そこのバスに記念公園から乗ってきたんですけど、差額で買えません?」「あっはっは」

 軽く笑われてしまった。

 その辺のバスを捕まえて、十字路まで戻る。基地問題その他がニュースになると「名護市中心部の〜」と枕詞がついて登場する名護十字路だが、文字通り道路が交わっているだけで、さほどの賑わいは感じられない。路地裏の食堂でソーキそばを賞味。

 名護から那覇へ向かう路線バスには、主に3種類ある。最も速いのは沖縄自動車道を経由する111系統、一般道経由でメインとなるのは20系統(名護西線)であるが、僕は77系統(名護東線)に乗車した。車両はまたしても沖縄バスである。名護界隈は、7:3くらいで沖縄バスが主力を占めているように思われた。

 名護東線はその名の通り、那覇と名護の間を東海岸経由で結ぶ路線である。市街地を出るとすぐに左へ折れ、東西両海岸の分水嶺へむけて猛然と登り始める。住宅はあっという間に消え、どこか日本離れした鬱蒼とした森が続く。トンネルのないまま峠を越えると、「次は第2ゲイト前」と放送がかかった。下り右カーブの向こうから、横文字の門が現れてすぐに消える。名護市辺野古、キャンプ・シュワブである。道路沿いに暫く金網が続くが、ジュゴンが棲むという普天間基地代替予定地の海は見えなかった。

 「APPLE TOWN」という謎の標識が掲げられた辺野古集落を過ぎると、バスは淡々と海べりを走る。断続的に集落が現れて、こまごまとお客さんが乗り、そして降りてゆく。沖縄の町には、野立て看板が無い。代わりに横断幕がそこらじゅうのフェンスに張られている。幕作りの業者の広告も、もちろん横断幕だ。

 ずいぶん長いこと海沿いを走ってから、街中を2度3度と曲がり始める。どこを走っているのか完全に分からなくなった頃、コザに到着。沖縄市の中心部で、車の往来の激しい賑やかな交差点である。バスも四方八方へと走り回っていて、東陽バスを初めて見かける。南国らしい、緑色の派手な装いだ。

 沖縄のバス停は両隣の停留所名と上下線の別が表示してあるだけで、○○方面のりば、などという案内はほぼ皆無である。読谷方面へのバス停を何とか探し当て、14時54分発の62系統(中部線)に乗る。「ジャスコ経由」と札が掲げられた、小型の琉球バスである。家並みを抜けて沖縄道をくぐると、左手のフェンスの向こうに瀟洒な住宅が現れる。アジア最大の米軍拠点、嘉手納基地である。滑走路が見えてきた。
嘉手納基地
 嘉手納には基地を一望できる、「安保の見える丘」なる場所がある。ガイドブックにはほとんど紹介されていないが、一度は訪れたいとかねがね思っていた。15時09分、嘉手納町運動公園入口で下車。バス停横でパラソルを差して、アイス売りがじっと客を待っている。目の前の丘、というより土盛りが安保の丘で、確かに基地すれすれの際どい立地である。

 丘の正面には真新しい「道の駅」が出来ていて、最上階からは基地が一層広く見渡せる。誰が考えたか知らないが、ここに道の駅を作った人は偉いと思う。とにかく呆れるほどにでかい敷地で、地平線の彼方まで全部基地である。滑走路の向こう側、遠く格納庫の方向から整備中らしき戦闘機のエンジン音が響いてくる。 距離の割には相当な騒音だ。振り返れば嘉手納の街並み。小住宅がびっしりと建て込んでいた。

 バス停に戻ると信号の向こうから、琉球バスが猛然と走ってきた。定刻よりも数分早く、にもかかわらずガンガン飛ばす。神風バスだ、と感心しているうちに嘉手納着。

 米軍が設計したのだろうか、沖縄にはロータリーが随分多い。嘉手納のロータリーはやたらとでかく、直径は100mを軽く越えている。傍らの古い地図によれば、サークル内には路地が縦横に通じ、こまごまと建物があったらしい。アメリカの町ならば一面芝生でも敷かれるはずで、その辺は妙に日本的だ。今は更地にされて再開発を待っている。完成すれば、ここも観光スポットになるのかもしれない。

 28系統か29系統か忘れたが、ともかく読谷線のバスに乗って、いよいよ那覇を目指す。嘉手納ロータリーを後にした国道58号線は、ぐいと海際へ押しやられる。基地の滑走路が、海岸線至近まで延びているための迂回である。通信施設などがゴチャゴチャしている辺りを、おっかなびっくり通り抜ける。フェンスの向こう、米軍のジープが気持ちよさそうに快走しているが、こちらは程なく渋滞にはまった。

 この渋滞がなんとも酷いもので、バスはにっちもさっちも進まない。相変わらず左手には米軍施設が続いている。土地返せ、と言いたくなる所だが、国道58号線は片側3車線の立派な道である。要は車が多すぎるのだ。

 「軍病院前」という物騒な名のバス停を過ぎると、ようやく車が流れ始めた。右も左も米軍施設が頻繁に現れる。嘉手納以南では建物の密度がぐっと高まっているが、密集地に米軍が居座っているのか、米軍が居るから密集地になってしまっているのかは良く分からない。あの普天間基地もこの辺りのはずだが、家並みと丘にさえぎられバスからは見えない。

 渋滞にはまったせいもあり、あとどの位で那覇に着くのかさっぱり分からない。いい加減飽きてきた頃に、突然モノレールの線路が見えた。バスは国際通りに入る。「那覇のメインストリート」という程度の予備知識は持っていたが、片側1車線の狭い道でまたしても渋滞にはまる。両側は見事なまでにお土産屋さんばかりだ。土産物街が街のメインストリートになってしまうとは。沖縄の観光への依存の高さがうかがい知れる。

 やっとの思いで国際通りを抜けると、県庁の立派な建物が現れる。電光掲示板に、「2000円札を使いましょう」とスローガンが流れている。そんな通貨、すっかり忘れていた。那覇市内では同様の掲示が随分とあり、必死の体制である。

 県庁の先が那覇バスターミナルで、18時着。周囲のビルはさほど高くなく、一見して町外れの風情である。ターミナルビルは2F建てだが、乗客より乗務員向けの雰囲気が強く漂っているのは名護と同様であった。

 夕食は牧志公設市場で。何を食べようか迷っている間に次々と店じまいが始まり、何とかラフテー(角煮)にありつく。国際通りは相変わらずの渋滞で、バス専用道路にでもしてしまった方が良いように思われた。もっとも車社会の沖縄では、到底無理な話ではある。

***

 5月6日(土)、最終日である。沖縄に着くまでが2日、滞在が2日とは妙なバランスだが、今回は沖縄まで"たどり着く"ことに意義があるのだからこれで良い。

 最終日の予定は出発前に何も決めておらず、当初は那覇市内観光で1日費やそうかとも思っていた。しかし我が手元には、とっくの昔にモトが取れたバスのフリー乗車券がある。今日1日、事実上タダで乗り放題である。使わない手はないだろう(使っておいてこう言うのもナンだが、2000円くらいの設定でも良かったんじゃないかと思う。那覇−名護を乗り通すだけでも、1740円もするのである)。

 7時50分頃、那覇バスターミナルから89系統(糸満線)糸満バスターミナル行に乗車する。糸満線の乗り場はターミナルの中ではなく、大通りを隔てた反対側にある。昨夜時刻表を貰った際にそう教わり、事実バスはちゃんとやって来たのだが、ターミナル内にも「糸満線」と表示を出した乗り場があり、なにやら謎めいてはいる。

 バスは空港を右手に望みながら、住宅街へと入る。新築マンションの多い小奇麗な街で、沖縄にもこんな場所があるのかと失礼な感想を抱く。それほどまでに、古い建物が多いのである。もっとも新築であっても、意匠はどこか沖縄らしい。こってりした印象を受ける。

 個性の乏しい国道を淡々と走る事しばし、糸満ロータリーで下車する。時計を見て驚いた。まだ8時20分過ぎである。時刻表では3つ先の糸満バスターミナル着が8時42分となっているから、明らかな早着である。何たる適当さかと思う。が、これは全くの勘違いであった。

 帰宅してから気がついたのだが、糸満方面へ向かうバスは那覇バスターミナルを出ると、直ぐに南下せずに東へ向かう。市街地をぐるりとほぼ一周すること約10分、旭橋バス停を通過するとようやく糸満へ向かうのである。この旭橋バス停は、なんとバスターミナルのすぐ向かい側にある。つまり僕は、那覇バスターミナル7時50分発ではなく、バスターミナルを7時38分に出て旭橋を7時52分に通過するバスに旭橋から乗ったのであった。この便なら糸満バスターミナル着は8時30分、ほぼ定時である。沖縄に限った話ではないが、まったくバスという乗り物はややこしい。

 休日の午前、糸満の町は静かである。海へと向かえば突き当たりがバスターミナルで、町外れの立地というパターンはどうやら沖縄ではデフォルトらしい。タクシーの運チャンがしきりに声をかけてくるのをかわして、9時ちょうど発の82系統(玉泉洞・糸満線)玉泉洞行に乗り込む。車両は琉球バスの中型車。糸満地区のローカルバスは、琉球バスでほぼ統一されているようだ。

 糸満市街地は小さく、程なく車窓は一面畑となる。道中ひめゆりの塔の前だけが突然変異のように賑わっていて、あとはまた田園風景で ある。ゆっくりと丘を越える。その果てには、東シナ海が青々と横たわっている。9時23分、平和祈念堂入口で下車。

 平和祈念公園の広大な敷地内を、奥へ奥へと歩いていく。国立墓苑は海を臨む丘の一角にあった。熱心にお参りしていたご夫婦にライターを借りて、焼 香。 売店のおばぁが神奈川県の建てた碑の所在を教えてくれたので、献花。

 墓苑に隣接した「平和の礎」にも立ち寄る。日米軍民問わず、戦没者20万人の名が刻まれたモニュメントである。バスガイドが「お墓ではないですから、手は合わせなくていいですよ」と言いながら通り過ぎていくが、一行の面持ちは神妙である。和歌山県出身者の欄に、同姓の戦没者の名を見つける。地元でも珍しい苗字だから、遠縁ではないかと思わず実家に電話する。心当たりは無いらしかった。

 併設された資料館の展示は相当な充実振りで、一層厳粛な気持ちにさせられた。しかし、音響に凝るなどして殊更雰囲気を煽るのはどうかと思う。この手の演出、どうにも苦手である。原爆資料館も、長崎より広島の方がシンプルでかえって迫るものがある。
喜屋武
 それにしても、祈念公園の閑散ぶりはどうしたものかと思う。GW真っ只中の名所としては、あまりにも空き過ぎている。沖縄戦に思いを巡らすなんて辛気臭い、と大方の観光客は思っているのだろうか。バス停に戻ると、先客は同年代の女性1人だけだった。先ほどバスから降りたのも、我々2人だけである。

 11時05分発の82系統でもと来た道を戻り、ひめゆりの塔下車。件の女性もここで降りる。志向が同じでバスは少ないから、どうしたって同じ行程になる。ひめゆりの塔の印象については割愛。旅行記をこれ以上暗くするのは本意ではない。

 11時57分、107系統(南部循環線)に乗車。今度は彼女は乗らなかった。12時13分発のバスまで、じっくり見学していくのだろう。砲撃の嵐で100mたりも進めなかったという激戦地を、バスは当たり前のような顔をして快走した。戦火を生き延びた、皺くちゃのおばぁ達を乗せて。

 バスは脇道へと入って、集落への道を登る。12時05分喜屋武着。ここが、沖縄本島最南端のバス停である。ロータリーとも駐車場ともつかない中途半端な広場があって、バスはくるりと折り返した。上空を、那覇空港を飛び立ったJALのジェット機が上昇していく。

 ここまで来たら、最南端の喜屋武岬を目指そう。そう思って歩きだしたが、これが意外に遠い。畑の中をとぼとぼたどるうちに、どうにも辛くなってきた。文字通り焼け付くような日差しが、じりじりと肌を刺す。挙句、中途半端な方角に取り付けられた看板のせいで、道を間違えてしまう。このままでは岬ではなく、手前の具志川城跡にたどり着いてしまう。

 ま、いいか。

 すっぱり諦めて、城跡に向かう。車道が尽きると木立を抜ける小道となり、やがて崖の上に出る。あたりは石垣が白く光り、一種独特な雰囲気を醸し出していた。見下ろせば、透明な海。サーファーが幾人も波を待っている。あちらの方がどう考えても気持ちよさそうだ。こっちは汗だくである。

 右も、左も、建物は全く見当たらない。ジェット機の轟音がまた聞こえてきた。

 沖縄本島最南端、喜屋武岬(の近く)。こんな最果てでも、auはバリ3であった。

 …と、ここで旅行記をしめてもいいのだが、まだ肝心のゆいレールに乗っていないのである(笑)。

 喜屋武の集落で郷土料理を食べてから糸満まで戻り、さらに那覇行のバスに乗り継いで、14時30分頃赤嶺駅前着。真新しいマンションに囲まれた駅前広場に、「日本最南端の駅」と標柱が立っている。すぐそこにbook offの看板が見える。さすがに来訪は自重した(が、後で調べたらここが日本最南端のbook offだった。何か買うのも一興ではあった)。

ゆいレール 何の変哲も無いホームに立って待つことしばし、2両編成のモノレールがやって来た。バスターミナルや県庁、国際通り沿いの繁華街をやや遠巻きに眺めながら、高架線をしずしずと進んでいく。車内は吊革がほぼふさがる状態で、盛況であることは喜ばしい。しかし、この旅行で乗った路線バスはどれも楽に座れるものばかりだった。「鉄道=座れない乗り物=不便」というイメージが固定化されるようでは問題がある。

 大型ショッピングセンターが威容を誇るおもろまちでお客さんがどっと降り、車内はにわかに閑散としてきた。終点首里の1つ手前、儀保で下車する。首里城にはこちらの方が近そうだと判断してのことだが、入口まで丘一つ越えねばならなかった。琉球情緒の残る路地裏をさ迷うのは悪く無い気分だが、難儀はした。

 復元されたばかりで真新しさの残る首里城を一巡りし、王家の墓所・玉陵を見学してから金城町の石畳を辿る。なんとも急な坂道で、崖の底まで転落していくかのような勾配である。反対側の丘も同様に急峻で、しかし住宅がびっしりと建っている。那覇市の人口集積度は、相当なものである。

 「ちゅらさんロケ地」と看板の出た民家の前を過ぎ、中腹の車道から8系統(首里城城下町線)石嶺団地東行のバスを捕まえる。沖縄バス運行の100円バスである。那覇市内線は那覇バスが圧倒的なシェアを持っているように見えたが、とうとう一度も利用できなかった。首里駅で下車、那覇空港までゆいレールに乗って、沖縄の鉄道全線完乗となる。

 連休も明日で終わりとあって、夜の空港はなかなかに混雑していた。いくばくかの土産物を買い、5000円札を差し出す。2000円札が返ってくれば、ある意味それも土産になろう。

 お釣りとして差し出されたのは、1000円札2枚だった。

(おわり)

2006.11.12
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