北欧のカケラ

高速艇チケット

▼第5部 アジアの純真


1996年8月24日(土) ストックホルム→アムステルダム→

 早朝のストックホルムは静かで、そしてすがすがしい。中央駅横のバスターミナルからリムジンバスに乗り、アーランダ空港へ向かう。ここもまだひと気がない。SASのカウンターで"Window seat,please."とリクエストするとあっさりOKが出る。

 ぐるりとロビーを見回すと、入口付近で荷物を梱包しなおしている東洋人を発見。クイズ王である。聞けば、デンマーク・フレデリシアで僕と別れ た後ボーンホルム島へ向かったが、思いのほか鄙びていなかったので早々に切り上げ、ストックホルムから船でヘルシンキ(フィンランド)、さらにタリン(エストニア)まで行ってきたという。やはりこの男只者ではなかった。

 ともあれ再度カウンターへ赴き、隣の席を押さえてもらう。出てきた搭乗券は通路際席である。アムステルダム行は2列座席の機材が使われるよう なローカル線ではない。つまり僕の席は窓際ではなかったのだ。2人で首を捻り、係員が"window"と"middle"を聞き間違えたのだろうという結 論に落ち着く。僕の発音はそれほどに怪しい。

 8時10分、通路側と真ん中席に並んで腰掛けた2人を乗せてSK555便は北欧の地を離れた。多少の感慨に浸って10時10分アムステルダム・スキポール空港着。今回は市街に出ることなく、空港地下駅でTGVタリスを撮るなどして時間を潰す。

 乗り継ぐのはCX(キャセイ・パシフィック)270便、出発時刻は13時45分発である。ところがこのB747、全員の搭乗が終わってもスポットを離れようとしない。機器のチェックがどうとか、時折放送が流れる。そろそろ動くかなと思っていると、スチュワーデスがオレンジジュースを配り始める。どうやら長期戦らしい。

 エンジン音は不意に高まったかと思えばまた静かになる。いっそ機材変更してくれた方がスッキリするのだが、15時25分、機は不安を抱えたままアムステルダムを飛び立った。1時間40分の遅れであった。


1996年8月25日(日) →香港→澳門

 往路にキャセイに乗ってから1ヶ月近くが経過しているが、月が変わってないから機内のオーディオプログラムには何も変更がない。退屈な時が過ぎて翌午前10時、機は墜落する事もなく無事香港啓徳空港に着陸した。

 せっかく香港経由の遠回りエアラインを利用しているのだから、香港にも少しだけ立ち寄る事にしている。ターンテーブルで荷物を受け取り、中から折りたたみ式のカートを取り出すと、なんと言う事か壊れている。パンパンに膨らんだドラムに無理やり詰め込んだのがいけなかったらしい。こうなるとこのカート、邪魔以外の何物でもない。

 …ええと、時効だと思うので告白します。空港のゴミ箱に投げ入れてきました。その辺にいたオジサンに睨まれました。ゴメンナサイ。

マカオ ともあれリムジンバスに乗り香港島を目指すが、不思議な事に香港の第一印象をさっぱり覚えていない。写真すら撮っておらず何をしていたのかと思うが、確実なのは上環(ションワン)を14時30分に出る高速艇で澳門(マカオ)に向かった事である。

 香港−澳門は1時間もかからないほど近いのだが、入国審査に恐ろしいほど長い列が出来ている。さほど進まないうちに次の船が到着して、どっと人が押し寄せる。パスポートに逆さまにスタンプが押された時には、到着から1時間以上が経過していた。

 町はどうやら祭りの最中らしく、狭い街路は雑踏を極めていた。坂道を登って聖ポール天主堂跡を見上げ、さらに登ってモンテの砦へたどり着く。ごちゃごちゃとした古いビルと建設中の高層ビルが混じった市街地を見晴るかす。

 澳門に対して僕は、ヨーロッパ風の建物が幾つも残った、少々田舎じみたのんびりとした都市というイメージを抱いていた。が、少しく歩き回った限りでは、ここはちっともヨーロッパではなかった。平たく言えば「リトル香港」なのであり、それならば本家香港の方が楽しかろうという思いが頭から離れなかった。

 市街地の端っこから対岸の島(タイパ島)へは、長い長い橋が架けられている。今夜の宿はその対岸にあり、送迎のマイクロバスに揺られてジェッ トコースターのように上下にうねった橋を渡る。着いたホテルはリゾート風で、間違いなく今回一番高級な宿であった。

 夜も更けた頃、再び橋を渡ってリスボアホテルのカジノへ行く。2人ともスロットマシーンのフロアばかりうろうろして、軽くすった。


1996年8月26日(月) 澳門→香港

 フェリーターミナルの周囲は新開地然として、真新しいマンションが立ち並びもしくは建設されている。その1Fに入居したヌードル店でぱっとしない朝食。

 10時の高速艇で澳門を後にし、10時45分香港・上環着。これが目的で香港に寄ったと言っても過言ではない、トラムに乗り込む。もちろん2人とも陣取るのは2F席の一番前だ。中環(セントラル)地区に差し掛かると、まずは道路上に張り出したど派手な看板の数々、続いてガラス張りの奇怪なデザインの高層ビル群の中を走りぬける。いかにも香港、である。

香港島を望む 銅鑼灣(コーズウェイ・ベイ)でトラムを降り、飲茶の昼食。残念ながら、長旅の疲れか食は進まなかった。近くのそごうの手 洗いにこもっていると、日本に帰ってきたかのような錯覚を覚える。

 中環まで戻って天星小輪(スターフェリー)の乗り場へ。ここも行列である。洋上に出れば、フェリーは大小さまざまな船の間を縫うように対岸へと向かう。砂利運搬船のような平べったい船もあれば、昔ながらの帆掛け舟もある。

 尖沙咀(チムシャツォイ)でガイドブックで見たような町の写真を撮り、人ごみをかき分けて怪しげなショッピングセンターをさ迷い、「スリに注意」と日本語の看板を見つけて律儀にびびる。帰路はMTR(地下鉄)に乗り、チューブのように丸まった車体を見てナルホド英国だと感心する(解説の要もないが、香港返還は翌97年。澳門返還は99年)。

 今日一日高速艇・トラム・天星小輪・MTRと乗り尽くしで、まったく香港とは乗り物好きにとって堪えられない土地である。トドメとばかりにピークトラムの乗り場でまた並ぶ。ケーブルカーでありながら床が平らなピークトラムは、登りに差し掛かるとグッと足に力を込めなくてはならない楽しい乗り物だったが、肝心の夜景は期待はずれであった。これなら函館の方が綺麗だと思う。

 中環に戻り、トラムを待つ。香港のトラムには、雑踏した市場の中を通り抜ける楽しい場所がある。写真で見ただけでどこかは分からないのだが、とにかく行ってみたい。単線だったから終点の折り返し場だろう。西側の終点は堅尼地域(ケネディタウン)、東側は箕灣(シャウキーワン)。名前からすれば、後者の方がそれっぽい。そう思って東行きのホームに立つが、なかなかやって来ない。途中の北角(ノースポイント)止まりばかりが次々と姿を見せる。

 20分は待っただろうか、やっと箕灣行がやって来て2Fの先頭に腰掛ける。銅鑼灣を越え北角を過ぎると、熱気が冷めるように車窓は淋しいものになっていく。座席をさらりと埋めていた、買い物帰りのオバサンや爺さんが降りて行く。こんな暗い街角に市場なんてあるのだろうかと思う。

 やがてトラムは終点にたどり着く。そこは小公園のような一角で、市場などありはしなかった。市場は堅尼地域の方だったのか、と賭けに敗れた僕達はガッカリしたが、本当に落胆したのは帰国後の事であった。調べなおしてみると、件の市場は北角にあったのだ。何本も見逃した北角止まりに乗っていれば、途中で本線から外れて市場を一周できたのだった。

 そんなオチは露知らず、僕達はMTRの駅へ向かった。往路は1時間近くかかったのに、中心部まで15分程度で着いてしまう。その代わり運賃は数倍。客層は若者や外国人が主体である。朝日新聞の衛星版を熱心に読む日本人ビジネスマンもいる。トラムとの住み分けは万全だなと、加減速のたび盛大に滑るステンレス製のイスで踏ん張りながら考える。

トラム
1996年8月27日(火) 香港→名古屋→

 ホテルは確か灣仔(ワンジャイ)にあったと思う。午前中はその界隈で、トラムを撮り歩く。中環や尖沙咀のギラギラした大ネオンサインと異なり、この辺りの道路に突き出した看板は小さい。ただの鉄板である場合も多い。物足りない思いもあるが、これはこれで野趣がある。

 夢中になってカメラを構えていると、肩を叩かれる。振り返ると、少年のようなあどけない顔立ちの中国人警察官が立っている。

"××××." …中国語で言われても、皆目分からない。

"××××!" 同じ事を、もう1度強い口調で言われる。写真を撮るなという意味だろうか。

"Ah...,What?" "Oh,you Japanese?" "Yes." "OK."

 なんで日本人だとOKなのか分からないが、どうやら中国人に間違えられていたらしい。それにしても、現地人に現地人と見間違われるほど、僕の顔は日本人離れしている のだろうか。そうクイズ王に問うと、彼はこう即答した。

「リュックのだらしない背負いかたが、日本人に見えないんスよ。」

 ちなみに彼はその風貌から、しばしば韓国人と間違えられる。

啓徳空港 さあ、日本に帰ろう。ホテル前から空港バスに乗車。海底トンネルの渋滞を抜けると、九廣鐵路(KCR)の大駅舎を右手に望 む。ああ、これも乗りたかった。

 搭乗手続きを済ませると、まだ時間には余裕がある。市街地方向に少し戻り、滑走路の正面に立つ。98年まで香港の玄関口だった啓徳空港は、敷地ギリギリまで市街が迫るその狭隘さが有名だった。マックの屋上をかすめるように、ジャンボジェットが轟音をたてて通過する。斜めに機体を傾けたまま滑走路上に進入し、体勢を立て直しつつランディング。ウルトラC級の技術を要求される空港である。

 ここがホームグラウンドのキャセイ・パシフィックはさすがに操縦が上手い。安全な空港敷地上に入ってから急降下で着陸する。ビル群に触れそうなほど低高度でやって来るのは、たいてい日系エアラインだ。

 15時ちょうど発のCX530便は、定刻通り香港を後にした。この便はノンストップではなく、台北に立ち寄る。台湾へは半年前に来たばかりだが、機内から空港ビルを眺めるだけでは、感慨は何も湧いてはこなかった。

 東南アジアからの航空路線だから、検疫の黄色い用紙が配られる。訪問国の記入欄にオランダ・スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・香港・マカオと書き 連ねていく。僕はドイツ、クイズ王はフィンランドとエストニアがこれに加わる。

「検査官が見たら、なんじゃこりゃ、って思うだろうな」

 2人、笑った。

 21時、名古屋空港着。バスで名鉄西春駅へ。クイズ王の実家は、ここから下り電車に乗った犬山にある。改札をくぐって、それじゃあと別れる。

 ひと気のないホームにポツンと佇むクイズ王の姿は、やがて入ってきた銀色の電車に遮られ、見えなくなった。


1996年8月28日(水) →東京→伊勢原

 満席の「ムーンライトながら」は東海道をひた走った。3時台の小田原で小田急の初電を待つ気はしなかったので、東京まで乗り通す。中央線は東京始発の各 駅停車、小田急の急行は短い6両編成。街はまだ、早朝の眠りの中にある。

 新宿から1時間、6時27分伊勢原着。向かいのホームで、当駅始発の上り急行が座席を全部埋めて発車を待っている。ラッシュアワーが始まろうとしていた。

***

 1ヶ月。長い間日本を空けた気もするが、世界は何一つ変わってはいなかった。ラジオをひねれば、出発前と変わらぬ顔ぶれのヒット曲が流れてきた。ただ一つ、ぽっと出の新人の曲がビッグセールスになっていた事にだけ、随分と驚かされた。

 PUFFY 「アジアの純真」であった。

(おわり)



◇あとがき

「アイルランド」

 スヴァルバール諸島からトロムソに戻ってきた日、手帳には確かにそう書いてありました。

 アイルランド…。思い出せない。て言うか、北欧と全然関係ないし。いや、待てよ…ひょっとして「アイスランド」の誤記か?ロングイヤービーエンかトロム ソの空港で発着案内を見上げた時に、「そんな所へ」と驚いた行先があった気がする。アイスランド…行ってみようかという話をしたような記憶が…駄目だ、思 い出せない。どうにもあやふやだ。仕方ない、このネタは没にしよう…

 当時の手帳と、282枚に及ぶ写真を貼ったミニアルバム。そしてそれらに書き残された、わずかばかりのメモ。本棚から引っ張り出し、図書館から借りてき た古いガイドブックと時刻表。それら断片的な記録から導き出される、おぼろげな記憶。そういったモノから、この旅行記は構成されています。どうやら無事、 帰国できたみたいです。帰ってきたのは8年も前ですが、何だかたった今日本に帰り着いたかのような、不思議な高揚感が僕を包んでいます。

 同行者、そしてこの旅の発案者でもあるクイズ王には、あらためてここで感謝の意を表したいと思います。また、卒業以来音信不通であるがゆえに無断で肴に してしまった点について、ご本人読んではいないでしょうがお詫びいたします。本文中でいささか酷い事を書いた気もしますし、険悪な空気を感じてしまった読 者がおられるかもしれませんが、それはきっぱりと気のせいです。

 いつかまた、こんな旅を…する日は来るのでしょうかね!? 果たして…。


2004.9.19
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