北欧のカケラ


▼第4部 都会のネズミ


1996年8月17日(土) →ヒルトシャルツ→ヒューミング→オールボー→オーフス

 船内のレストランで脂っこい食事をして、リクライニングもろくにしない座席に腰掛けて眠れない夜を過ごす。6時30分、船はデンマーク・ヒルトシャルツ港に到着した。海は越えたがこちらもユーラシア大陸、ユトランド半島の北岸である。

ヒルトシャルツの私鉄  ターミナルから連絡通路を伝うと、片面1本きりの小さな高架ホームに突き当たる。ヒルトシャルツ始発のローカル私鉄のホームだが、線路は両側に伸び、すぐ右手に隣の駅が見えていてオレンジ色の小さなディーゼルカーが何台か止まっている。さしずめあちらが「ヒルトシャルツ中央駅」、ここが「ヒルトシャルツ・フェリーターミナル口駅」と行った所なのだろう。

 7時44分、ディーゼルカーのうち1台がするすると動き出して、ターミナル口駅にやって来た。けたたましくブザーが鳴る入口で整理券を取って乗り込む。こまめに停まっては地元客を少しずつ拾って、8時06分ヒューミング着。

 9時12分、白と赤の新鋭気動車が颯爽とホームに入ってくる。デンマーク国鉄(DSB)の看板車両、IC3である。コペンハーゲンへ直行する特急列車で、洗練された車内にも都会の香りがする。もっとも僕達は先を急がず、9時47分オールボーで下車、バスでリンホルムのバイキング遺跡へ向かった。広大な芝地の中に無数の墓石が散らばり、墓石と同じ色の羊が草を食む姿は絵になる。絵になるが、それよりも落し物を踏まないかどうかが気にかかる。

 11時51分、再びIC3の客となり、少々まどろんで13時21分オーフス着。にわかに都会にやってきたようで、近代的な意匠を凝らしたビルが立ち並んでいる。自転車専用レーンがある街路に感心したりしながら、歩道の人波をかき分けてオールドタウンを目指す。オールドタウンは、日本で言うところの明治村のような公園である。入口で大学の学生証を提示。

「ああ!これ、見たことあるよ俺。」

 係員のオッサンは日本語オンリーの学生証に明るく頷いて、学割で中に入れてくれた。


1996年8月18日(日) オーフス→フレデリシア→ブラミング→リーベ

 DSBの特急列車は、ほとんど全てIC3で運転されている。既に昨日2度も乗っており、3たび同じ車両というのも少々芸が無い。変化をつけるべく、今日は「NORDPILEN」号に乗ることにした。ストックホルムからナルビクまで同名の夜行列車が走っているが、こちらはDSB最北端駅のフレデリスクハウンからユトランド半島を真っ直ぐ南下してドイツ・ハノーバーへ向かう。

 全車ドイツ鉄道(DB)の客車で組成された「NORDPIREN」は、出発時刻の20分近く前からオーフスに停車している。IC3に追い抜かれるための長時間停車で、伝統ある客車列車が新鋭特急に追い抜かれるその様は、九州ブルトレとよく似ていて悲哀が漂う。

 10時30分オーフス発。ヨーロッパの客車といえばコンパートメントのイメージが強いが、この列車は開放型主体で白く味気ない車内に硬そうな座席が並ぶ。通路は中央ではなく片側に寄せられて、4〜5列ごとに枕木方向に仕切り壁が入る一風変わったつくりである。コンパートメント車を無理やり改装した車両である事は後に知った。

リーベ 大聖堂より  11時38分、フレデリシアで下車。列車はここからさらに南下し、ドイツ領を目指す。僕達はといえば、クイズ王は東へ、僕は西へとここで別れる。さし当たっての目的地はクイズ王がバルト海上のボーンホルム島、僕がデンマーク最古の市場町リーベである。まるで田舎のネズミと都会のネズミだな、そう思う。

 それじゃあと別れて、12時15分発のICを待つ。コペンハーゲン始発のエスビヤオ行である。ところがこのICがやって来ない。聞き取れない英語の放送に耳を傾けると、どうやら遅れているらしい。時計と睨めっこしながら乗車口に立ち尽くしていると、20数分の遅れで入ってきた。

 13時25分ブラミング着。リーベへはここでローカル線に乗換えである。接続列車は既に発車し、後続は2本立て続けに休日運休。次の発車は15時09分であるが、なんともキメの細かい事に代行バスが用意してあった(と当時の手帳に残っているのだが、さっぱり覚えていない)。

 リーベには14時頃到着。中心部へ足を踏み入れれば、右を見ても左を見てもレンガと木組みの家々がずらりと並ぶ。大聖堂のてっぺんに上れば、ぐるりと続くオレンジ色の屋根、そして緑の大地。その向こうに見える集落も、リーベと同様オレンジ色にこぢんまり固まっている。絶景である。ああ、ここは確かにヨーロッパだ。

 市街地に近接したYHも、建物は真新しいがオレンジに彩られていた。受付でスリーピングシーツの有無を尋ねると、売ってくれるという。北欧のYHはシーツの貸出料が高いという話は出発前に聞いていて、駿府公園のYH協会支部に買いに行ったのだが、扱っていなかったのである。市ヶ谷の本部まで買いに行く気はなかったから現地調達するつもりだったのに、どこも高値で貸すばかりで売ってはくれなかったのである。これで宿泊料は大幅に浮くが、あと数泊しかしないから、モトが取れるかどうかは怪しい。

リーベ 夜警  大聖堂横の旅籠の前には、20時になると夜警が現れる。まだ明るいから「夜警」ではなく「夕警」だがとにかく現れる。もちろん観光客相手のサービスで、伝統衣装に身を纏ったオジサンに付いてぞろぞろと町を練り歩く。競って先頭を歩きたがるのは子供たちで、まるでハーメルンの笛吹きのような光景でもある。要所要所で張りのある声で観光案内がなされ、時に歌が飛び出す。町を一周する頃には本当に夜となり、石畳をほのかな明かりが照らした。


1996年8月19日(月) リーベ→ブラミング→フレデルシア→レンツブルク→パドボーグ→オーデンセ

 YHで同部屋になったオジサンは気難しげな人で、ドイツ人だという以外は何も聞き出せなかった。ところが出掛けに"Auf Wiedersehen."と別れを告げると突然陽気になり、"Wiedersehen!"と大声が返ってきた。言葉って大切だと思うが、第2外国語をロクに勉強しなかった僕が覚えたドイツ語といえば、これだけなのである。

 9時09分発のローカル列車でブラミングへ出て、IC3に乗り継ぐ。薄緑色の牧草地が広がり、牛が草を食んでいる。北欧も南辺に近いところまでやってきて、景色が北海道みたいになってきた。

 10時24分、昨日待ちぼうけたフレデルリシアで下車。降りたホームにたたずんでいると、後方から同じIC3が接近してきた。西部(エスビヤオ)と南部(パドボーグ他)からコペンハーゲンへのICはそれぞれ2時間ヘッド、北部のフレデリシクハウン(一部オーフス始発)からもう1編成が1時間毎にやって来てここで併結する。完成されたパターンダイヤである。

IC3  フレデリシクハウン始発の3両はするするとこちらへ接近し、思いのほか勢いをつけて前3両に「衝突」した。ばすっと大きな音が響いてびくりとする。IC3先頭部の黒い縁取りにはエアーが詰まっているのである。なんとも荒っぽい連結だ。

 ICを見送り、待つ事1時間、無骨なディーゼル機関車に牽かれてDBの客車編成が入ってきた。昨日乗った「NORDPILEN」に今日も乗車。11時40分フレデルリシア発。ここまで来たら、ドイツに足を踏み入れてみようと思う。

 「NORDPILEN」にはビストロが連結されている。どんなものかと見に行ってみたが、安くは無かったので退散する。通路の向こうから女性車掌がやって来た。手に東洋信託銀行のビニール袋を持っている。座席に置いてきた僕の荷物である。目を離すんじゃないと怒られる。旅もまもなく20日目、だいぶユルんできた。あるいは、ドイツは北欧ほど治安がよろしくないという現れであったかもしれない。

 13時14分パドボーグ着。デンマーク最後の駅で、係員が乗り込んでくる。出国審査かと思ったがドイツの検査官で、アムステルダムと同じEU仕様の入国スタンプが押される。国は変われど車窓は変わらない。もっとも、駅のサイン類が一変するから国境を越えた実感は涌く。

 目指すはドイツ3つ目の停車駅、レンツブルクである。ここにはループ線で高架に駆け上がり、キール運河を高々と渡る大鉄橋がある。列車は定刻どおり走っている。あと15分でレンツブルク。窓外を眺めるにも力がこもる。あと10分。まだ線路は地平を離れない。あと5分。荷物をまとめて出口へ向かった。

キール運河鉄橋  14時15分、レンツブルク着。

 なかば呆然とした思いで、僕はホームに立った。5分もそうしていると、前方を横切る高架橋にゆっくりと「NORDPIREN」がその姿を現した。なんと言うことか、大鉄橋はレンツブルクの「先」だったのである。下調べはしてきたつもりであるが、勘違いをしてしまったらしい。

 予定を変更して次の列車で鉄橋を渡るというのが普通の選択肢だろう。しかし当時の(今も、か?)余裕の無い僕の頭には「次の列車に乗らなければYHの夕食に間に合わない」という考えしか浮かばなかった。30分後、落書きで汚された折り返しパドボーグ行のディーゼルカーが姿を現した。僕はそれに乗り込んだ。

 入国スタンプが押されたばかりのパスポートに出国スタンプを押すドイツ検査官の脳裏に、いかなる思考が浮かんだかは分からない。デンマークの係員にはまたしても出くわさないまま15時57分パドボーグ着。コペンハーゲン行のICに乗り継ぐ。おなじみIC3である。3度目のフレデルシアを過ぎると、列車はリレ海峡をまたぐ鉄橋へと躍り出た。フュン島に入り18時08分オーデンセ着。


1996年8月20日(火) オーデンセ→コペンハーゲン

 オーデンセは大きな町で、DSBの駅舎も北欧の地方都市には珍しく、大掛かりな近代建築である。しかしアンデルセン博物館の一角は故意か偶然か小住宅がひっそりと立ち並び、いかにも童話作家ゆかりの地らしい雰囲気を醸し出していた。生家を探し回ったり、「物」と漢字の看板を出したアヤシゲなフォトショップ(monoが元ネタか?)でフィルムを買ったりして半日を過ごす。

航路輸送  とどめとばかりに駅裏の鉄道博物館を冷やかして、13時08分発のICでいよいよコペンハーゲンを目指す。20分後、ニューボーを発車すると、列車は操車場のような所をゆるゆると走り、何度か停車を繰り返す。前方に大口を開けた船が迫ってきて、IC3は自力でゆっくりとその中へと入った。コペンハーゲンのあるシーランド島まで、ストアベルト海峡を船で渡るのである。

 6両編成のICは3両ずつに分割されて、船倉に収まっている。たいていの乗客は車内から出て、船室や甲板でくつろいでいる。そうかと思えば空いた列車に1人残って、読書にふける客もいる。思い思いに羽を伸ばして、所要約40分でコソーアに着岸。船の外で列車は再び6両に組成され、高速で走り出した。(翌97年、連絡橋が開通。コペンハーゲンとデンマーク諸都市はレールで繋がり、ストアベルト海峡の航路輸送は過去のものとなった。)

 やがて周囲に住宅が立ち並び始める。これまでとは桁違いの大都会に近づいている気配が、色濃く感じられる。線路はやがて複々線となり、赤い通勤電車と頻繁にすれ違う。15時51分、コペンハーゲン中央駅着。頭端式ではないものの、ドーム上の屋根がかかった風格ある大駅であった。


1996年8月21日(水) コペンハーゲン→マルメ→ルンド

ニューハウン  コペンハーゲンは大きな町だが、トラムも地下鉄も無い。市内交通は黄色い路線バス一辺倒である。バスという乗り物はどうにも取っ付きにくく、複雑な路線図を眺めても町の印象というものがサッパリ湧いてこない。(2002年、地下鉄がようやく開業)

 もっとも、観光名所は中心部に集中しているのである。トラムが無いのは趣味的には大問題だが、名所めぐりには関係の無い話ではあった。旧証券取引所を皮切りに、ニューハウン・ローゼンボー城・市庁舎と石壁と青屋根の建物群を見て回り、中央駅で赤い近郊電車を撮影してからクリスチャンボー城へ向かう。市庁舎前ではなぜか「ゴーストバスターズ」のキャンペーンが行われ、クリスチャンボー城では英語のガイドツアーに参加したがサッパリ理解できなかった。

 さて、15時の高速艇でスカンジナビア半島・マルメを目指そう。狭い船内は、ほぼ満席。家電製品の大きなダンボールを抱えた人が幾人か目に付く。皆大きな買い物となると、海を越えてコペンハーゲンにやって来るのだろう。

 船はゆっくりと、細長い水路を行く。有名な人魚姫の像がこちらに背を向けて座っていて、周囲にカメラの放列が敷かれている。その先に停泊した大きな船には、日本語の表記がある。よく見れば東海大学の望星丸だ。こんな所まで何しに来たのだろう。

 街並みが遠ざかりエーレ海峡に差し掛かると、船は一気に速度を上げた。15時45分、マルメ港着。他の客に混じってぞろぞろと下船すると、制服姿の女性が所在なげに立っている。そうだ、これは国際航路だったんだ。あまりに普段着姿の船だったから、うっかりしていた。慌ててパスポートを取り出す。地元民は素通りしていたけれど、一応パスポートくらい見せたほうがいいだろう。

 検査官は目の前で立ち止まった東洋人を一瞥すると、別室へ呼び込んで荷物を改め始めた。久々に旅行者が現れてやる気を出したのか、税関申告品でもあると勘違いしたのかは定かではない。ともあれ2度目のスウェーデン入国スタンプが押される。(エーレ海峡にも2000年、連絡橋が開通した)

 マルメ城を見てから、18時12分発の近郊電車に乗る。車両自体はごく普通のスウェーデン国鉄(SJ)国電タイプだが、微妙な配色の薄紫色に塗り直されてシンボルマークもペイントされている。地域限定でイメージアップを図っているのか、あるいは一部民営化でもされたのかもしれない。

 18時26分ルンド着。「列車ホテル」として高名な、ルンドYHに投宿する。SJの旧型客車を転用したその施設は確かに一見の価値があったが、元が夜行列車であるから室内は非常に狭かった。


1996年8月22日(木) ルンド→ストックホルム

 ルンドの市内を一回りする。大聖堂はどこの街にもあるので少々見飽きてきたが、ここの特色は大学町という立地にある。古びた校舎の前には学生がたむろし、往来は人で溢れている。歴史は古くとも若い街である。

 スカンジナビアレイルパスに、最後の日付を入れる。いよいよ次は旅の終着点、ストックホルム。最後を飾るのはX2000、通信カラオケのような名前だがSJの看板車両である。最高速度は210km/hとICEやTGVに比べれば一歩劣るが、これが北欧の最高速列車である。

X2000  11時33分ルンド発。2人掛けのリクライニングシートが整然と並んだ車内はビジネスライクだが、要所要所の内装が木目調になっていて、かろうじて北欧らしさを醸し出している。走る線路は在来線だから徐行もするが、それでもやはり速い。ぼんやりとするうちに16時05分、ストックホルム中央駅に着いた。

 X2000の写真を名残惜しく撮っているうちに、手洗いに行きたくなった。雑踏する地階に降りると、有料トイレと無料のトイレが隣接している。生来のケチな根性で、無料の方のステンレス扉を開ける。薄暗く小汚い室内には浮浪者風の爺さんやヤバそうなオーラを発した兄ちゃんがたむろしている。おっかなびっくり用を足したが出るものも出きらず、妙齢の女性係員に何がしかを払って有料トイレに入り直す。この旅行で最も身の危険を感じた瞬間であったが、立地を考えれば当たり前の話ではある。 (実のところこの話、ストックホルムかコペンハーゲンかどうしても思い出せない。多分この日の出来事だったと思うのだが…)

 何はともあれコンコースを抜け、駅前広場に立つ。目の前に教会の大尖塔が聳え立っている。20日前にはヨーロッパに来た感動と、そして不安の中あの塔を見上げた。戻ってきたな、そう思う。

 ストックホルムにはルンドの列車YH以上に有名な、帆船YHと刑務所YHがある。ルンドからかデンマークからかは忘れたが予約の電話をかけてみると、刑務所は満室との答え、帆船に至っては「8月と9月はすべて満室です。10月以降の予約の方はXXX-XXXX番へ〜」とテープが繰り返すばかりであった。帆船の目の前にある、満室対応用のような別のYHにチェックインする。

 日暮れまでのしばし、湖にかかる橋の上に立つ。SJの鉄橋、市庁舎、その向こうの茜空に気球が浮かんでいた。


1996年8月23日(金) ストックホルム

 そう言えばストックホルムで落ち合うはずになっている、クイズ王の姿がない。市内のYHに片っ端から電話をかけてみたが、どこにも今夜の予約は入っていないようである。全部満員で泊まれなかったのかもしれない。スタヴァンゲルでは満室で途方にくれていた所を助けてもらったのであるが、居所のつかみようもないし、まあ彼なら何とかなるだろうと放っておくことにする。酷い男ではある。

 とりあえずたまった洗濯物を片付けなくてはならないが、受付に尋ねるとランドリーはないのだと言う。じゃあどこに行けば良いんだと問えば地図を取り出し、随分離れた所にマルを付ける。たかが洗濯に地下鉄2本を乗り継ぎ、半日を費やしてしまった。

 昼食にとマクドナルドに入ると、ゴミ箱が実に細かい分別を要求している。紙類一つとっても、モノによって捨てる場所が違うのである。さすが環境先進国と感心する(この当時、日本のマックは飲み残しの分別すらしていなかったと思う)。

ストックホルム地下鉄  午後は市庁舎の見学ツアーに参加する。豪華絢爛さに目を奪われはしたが、英語の説明がさっぱり理解できず「青の間」(ノーベル賞受賞パーティ会場)がどこなのか分からないまま終わってしまった。塔のてっぺんに上れば、旧市街が一望の下に広がる。もちろんシャッターを押すときは、橋を渡るX2000がフレームに入ってくるのをしっかり待つ。

 お次は地下鉄の撮影。午前中にも一度乗ったが、ストックホルムの地下鉄駅はどこもアートに凝っており、乗り甲斐撮り甲斐がある。もっとも場所によっては雰囲気が悪く、緊張する場面もあった。治安のいい北欧でも、首都の地下鉄となればやむを得ないかなぁと思う。

 満ち足りた気分でYHに戻る。明日はいよいよ北欧を後にする。朝早いから今日のうちに別れを告げようと上段ベットを仰ぎ見ると、国籍不明の同宿者はなにやら祈りを捧げている最中であった。邪魔しては悪いので随分と待ってみたが、一向に終わらないので諦めて、そっと横になった。


(つづく)

2004.9.5
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