大韓民国・大混雑


▼第4部 再びソウル

 2002年9月23日(月)、たそがれのハンガン(漢江)を渡りムグンファ号はソウル駅に到着した。17時25分、定刻より13分の遅れであった。

 今宵の宿はYMCAホテル、初日と同じ宿である。狭い地下ホームから1号線の電車に乗り、チョンガク(鐘閣)駅で下車。そして地上に出た途端に、僕は思わず目を見張った。

 大通りは活気に満ちていた。数え切れないほどの若者が往来を闊歩し、屋台には煌々と明かりが灯っていた。それは、数日前にバスを降りて右往左往した、あの人気のない道路だとは到底思えなかった。チュソク(秋夕)が終わったのだ。プヨからチョンジュから、ありとあらゆる地方都市から、皆ソウルへと戻ってきたのだ。この賑わいこそが、大都会・ソウルの日常であるのだろう。

 ホテルにチェックインするや否や、僕はベッドに倒れこんだ。この数日、行く先々で親切に接した。出会った誰もが笑顔であり、訪れた街の全てが活気に満ちていた。満足と疲労と、そしてどうにも表現しようもない想いとが胸に渦巻くのを感じつつ、僕はしばらくまどろんだ。

 夕食を取るべく、ソウル随一の繁華街・ミョンドン(明洞)へ向かう。半端じゃなく人通りの多い道の両側には、ファッション系のお店がずらりと並んでいる。アクセサリーやヌイグルミの屋台も、幾つも出ている。飲食店のラインナップは多種多様で、マクドナルドや海苔巻屋さん、そして何故かとんかつ屋が何軒もある。思わずとんかつに惹かれてしまったが、ここはぐっと堪えてチェーン系らしい韓国料理レストランに入り、詳細は忘れたがとにかく辛い料理を食べる。

 CDショップを覗いてみる。ランキングの3位のところに、プヨ(扶餘)で買ったBoAのアルバム"NO.1"が並べてある。歌詞は全曲ハングルであったが、ボーナストラックとして日本でヒットした"Listen to my heart"を収録している。またタイトル曲も帰国後に日本で、シングル「奇蹟」と両A面扱いで発売された。無論BoAは韓国語で歌う方が自然であるのだが、長い間エイベックスが発掘した新人だと勘違いしていたので、なんだか彼女の新しい一面を発見したような気がする。

 そして4位にKANGTAの"Pine Tree"が入っている。プヨのCD店のおばさんがくれたポスターは、このCDの販促品であった。ジャズ系の男性シンガーだが、これがツボにはまり帰国後何度も聴き直している。8位のLena Park("Op.4")は「歌姫」との表現がまさにぴったりはまる。すばらしい歌唱力を誇っており、クレ(求禮)でTVを見たときに、彼女のCDは是非買わねばと決心していた。

 つまり僕は韓国で計3枚ものCDを購入した。日本ではレンタルか中古で済ましてしまう場合が殆どだから、これは特筆してよいと思う。毎晩のようにTVの音楽番組を見たが、K-POPの流行歌は総じて日本の若者に受け入れられ易いつくりになっている。何を歌っているかさっぱり理解できない事を除けば。

 そしてなんと6位にクサナギことチョナン・カンが。ひょっとしたら置いてあるかもとは思っていたが、トップ10入りしているとは思わなかった。まさかここはランキングの棚ではなく、ただ番号が振ってあるだけなのだろうか。ちなみに同じつんくプロデュースのソニンのCDは影も形もなく、どうやら「韓国語で歌う日本人」の方が「日本語で歌う(在日)韓国人」より受けるらしい。

 チョナン・カンを別にすれば、日本のCDは全く置いていない。日本文化に対する韓国政府の警戒感が垣間見えるが、実は宇多田や浜崎のCDも、表通りの露店で公然と売られている。いかに政治的な規制がかかろうと、文化の流入は止められるわけがないのだ。


 いささか脱線した話を旅行記に戻して、翌9月24日(火)、晴れ。

 何と言っても今日の目玉はパンムンジョム(板門店)ツアー参加であるが、集合時刻は11時10分と間があるので、ホテルを出て街歩き。チュソクの連休明けだからだろう、すれ違うビジネスマン達はみな眠気の抜けきっていない顔をしている、ように見える。
韓国国電
 シチョン(市庁)駅の改札口からは、通勤客がどっと吐き出されてくる。財布を改札機に押し当てている人が多い。JR東日本のスイカみたいなものらしかった。

 ソウル駅からインチョン(仁川)方面への国電に乗り、窓外に目を凝らす。列車走行写真を撮影できる場所を探しているのである。結局4つ目のテバン(大方)で下車、ここのホームの先端でカメラを構えることにして、改札口へ立ち寄り撮影の了承を得る。

 韓国国鉄の場合、長距離列車は欧米のそれに近い外観であるのだが、国電は日本の通勤電車そのままの姿をしている。時折、緑色の国電に混じって赤い地下鉄の電車がやってくるが、デザインは国電とほぼ同一である。小1時間ほどそこで粘ったが、周りから咎められる事はなかった。だいぶ自由に撮影できるようだ。

 ホテルまで戻り、ツアーの迎えが来るのを待つ。目の前の往来にはひっきりなしに車が行き交い、クラクションが鳴り響き、ほこりが舞う。YMCA玄関はソウル市民にとっても格好の待ち合わせ場所であるらしく、若者やおばさんが人待ち顔で何人も佇んでいる。

 約束の時間から少し遅れて、若い女性が徒歩で迎えに来た。バスが来てピックアップしてくれると思っていたので少々意外である。パンムンジョムには外国人しか入れないと思っていたが、彼女が生粋の韓国人であった(またこの女性が、普通にミョンドンあたりを歩いていそうな風貌なのである)のにも意表を突かれた。タクシーを拾い、たどり着いたのはロッテホテルである。ここにツアーのビューローがあり、チェックイン。何の事はない、彼女の仕事範囲はここまでであった。

 ロッテホテルはソウル屈指の高級ホテルである。駐車場に面した待合室には、パンムンジョムツアー客のほかに、空港へのバスを待つ自民党鳥取県支部の一行がいる。さすが自民党、支持者丸抱えでロッテホテル豪遊とは太っ腹である。…こんな事書いていいのかなあ。

 11時50分、バス2台仕立てのパンムンジョムツアーはロッテホテルを後にした。参加客はもちろん全員日本人で、韓国に初めて来た人ばかりだ。やはり、韓国に行ったらまずは板門店、と誰もが思うらしい。ガイドの女性は韓国人だが、大柄で何故か威圧感さえ漂わしている。彼女は特別な資格を取得してパンムンジョム立ち入りが許可されているが、一般の韓国人が行こうとすれば、申請から半年はかかるのだと言う。その間に思想信条とか色々探られるのだろう。

 軍事エリアへ行くのだからガイドの指示にしたがって云々という諸注意を聞くうちに、バスはハンガン(漢江)に沿う高速道路へ入った。川幅が広がり、イムジンガン(臨津江)との合流地点を過ぎると、今度はそのイムジンガンにそって遡る。しばらくはこの川が軍事境界線となるが、この辺りは民間人出入統制線(民統線)が設定されてないので、対岸の北朝鮮が手に取るように見える。もっとも川岸には厳重に鉄条網が張り巡らされ、哨戒小屋が建っている。

 1時間ほどで高速道路を降りると、イムジンガク(臨津閣)に到着する。レストハウス風の建物で昼食。クレ(求禮)の食堂で家族が食べていた肉料理こそがプルコギだったと、ここで初めて知る。外から「ポン、ポン」と乾いた音が響き、なんだろうとツアー客一同首を捻る。

 建物の裏手から木製の細い橋が伸びているが、鉄道橋にぶつかった所で鉄条網に遮られ途切れている。鉄道のトラス橋はイムジンガンを渡り、対岸へと通じている。これが「自由への橋」で、対岸はまだ韓国だが民統線が敷かれている。一般の韓国人はこの鉄条網から先へ一歩も進む事が出来ない。

 記念写真のシャッターを押してもらい、バスに戻り始めたところで突如轟音が響いた。振り返ると、自由の橋を2両編成のディーゼルカーが渡っていくではないか。南北首脳会談後に走り始めた、民統線の向こう側のトラサン(都羅山)駅まで行く列車に違いない。写真を撮り損ねた事を大いに悔しがる。

 イムジンガクを出たバスは検問所を通過し、いよいよイムジンガンを渡る。韓国人が渡れない川を、外国人観光客の若造が気軽に越えてしまいなんだか後ろめたい。

 ほどなく国連軍基地のゲートをくぐり、駐車場で水色のバスに乗り換える。何名かが着替えるように指示され、チェック柄のシャツを羽織る。どうやら肌の露出が一番問題視されるらしい。ここからは国連軍兵士が同乗する。アメリカ人と思われる、あどけなさの残る兵士だ。

 基地内で概要説明を受け、「安全を保障することはできません」と書かれた同意書にサインする。いよいよバスはパンムンジョムへと向かう。有事の際に道をふさぐ爆薬の下をくぐり、地雷原を通過する。いやがうえにも緊張は増す。

 その時である。電話が鳴った。

 非武装地帯内で携帯電話が通じる事にも驚いたが、電話に出たガイドの口調にみな度肝を抜かれた。彼女は電話口で、終始一貫大声で笑いつづけたのである。まるでここが渋谷か原宿で、相手が彼氏でもあるかのような話し振りである。仮にもパンムンジョムは、東アジア屈指の軍事的緊張地帯である。先刻は国連軍兵士と韓国料理の話題で盛り上がっており、思いのほかリラックスムードだなとは思っていたが、いくらなんでもこれはないだろうと思った。日常的に仕事で出入りするうちに、緊張感が欠如したとしか考えられなかった。ある意味でそれは、パンムンジョムという場所の異常さをよく現しているのかもしれなかったが。
板門店
 ともあれバスはパンムンジョムへと到着した。大きな建物が2つ並んでおり、首脳会談用の建物と、まだ使われてないが離散家族の面会所だと言う。どちらもまだ真新しく、どうやら何かが変わりつつあるらしい。

 展望台に登ると、会議場の全貌が見渡せる。TV等でおなじみの光景だ。

「あ。こっち見られてる。」「写真も撮ってるぞ。」

 誰かが声をあげる。見ると、北側の建物の柱に隠れるように、こちらをうかがう軍服姿がある。もっともここは撮影自由なので、日本人も負けずに北側にカメラを向けてシャッターを切る。

「モウ行キマスヨー」

 展望台の下から国連軍兵士が間延びした日本語を叫んで、それで撮影会はお開きとなった。

 会議場の内部を見てから、再びバスに乗り監視所へ行く。いつの間にかバスの前に装甲車が付いている。監視所からは、一面の緑に覆われた中に、水色の国連軍施設と白色の北朝鮮軍施設が点在しているのが見渡せた。北朝鮮軍の方向へは監視カメラが設置されている。

 国連軍基地まで戻り、土産物の購入タイム。相変わらず断続的に「ポン、ポン」と音が響く。南北鉄道連結工事がこの日始まり、セレモニーとして地雷が撤去されている音なのだそうだ。日朝首脳会談から1週間後の出来事である。

 思いのほかパンムンジョムはのんびりとしていたが、それでもやはり緊張していたらしい。元のバスに乗り換えてイムジンガンを渡るや否や、僕はぐっすりと眠った。

 それにしても、軍事境界線からソウルまではわずか1時間。そう考えると、ソウルの平和さと繁栄ぶりはまるで奇跡としか思えなかった。ソウルに戻った頃には日も傾き始め、市庁舎前の車の洪水の向こうにあのサッカーボールのモニュメントが輝いていた。
ソウル市庁舎前

 最終日、9月25日(水)の朝食はホテル1Fのパン屋さんで買った。今回訪れたいずれの街にも、必ずと言っていいほど美味しいパン屋さんがあった。昨日の夜、ホテルに程近いインサドン(仁寺洞)で食べたカルククス(アサリだしの麺)も美味だった。チョンジュ(全州)のコンナムルクッパブといい、韓国に辛くなくても美味しい料理が多々あることを発見したのは、考えてみれば当然ではあるけれども一つの収穫であった。

 8時半頃、インチョン(仁川)空港行バス停の前に立つと、10分ほどで大型バスがやって来た。運賃は5,500ウォン(ギムポ/金浦空港へ立ち寄るので行きより安い)、1万ウォン札を差し出す。と、濃いサングラスをかけた運転手は500ウォンだけを返してよこし、何事か英語でまくし立てて乗り込めという仕草をする。お釣りが出ることはフロントで確認してきたのだが、どういう事だろう。

 最後の最後によく分からない事になってしまったなぁ、と暗澹たる気持ちで席に座る。バスは街角にこまめに停車し、ぽつぽつと乗客がある。と、運転手が僕の席までやって来た。手には4,000ウォンを持っている。何の事はない、1,000ウォン札を切らしていただけだったのだ。ちょっとでも彼を疑った自分を恥ずかしく思う。

 ユナイテッド航空(UA)826便成田経由ホノルル行は12時10分の出発である。十分な余裕を持って空港に着いたが、既に窓際は満席であった。ふと出発案内を見上げてみる。世界各都市の名が行先欄に表示されているが、なかに大韓航空のピョンヤン(平壌)行があり仰天する。チャーター便か何かだろうか。

 ターミナルビルの本屋に入り、日本のマンガのハングル翻訳版を4冊ほど購入。店によりラインナップには若干差があるが、見かけたのは「ドラゴンボール」「ヒカルの碁」(さすが囲碁の本場)「金田一少年の事件簿」「部長 島耕作」(「課長〜」かと思って買ったら違った。渋い!)「花より男子」「キャンディ・キャンディ」といったところである。6年ほど前に友人が韓国に行った時は、マンガ自体がほとんどの本屋で扱われていなかったそうだ。「マンガなんて小さな子供しか読んでないみたいですよ」と言われたのだが、だいぶ状況が変わったようだ。

 買物も終わったので、銀行へ立ち寄る。3分の1ほど使わずに残ったウォンを日本円に両替するのである。緑色の札束が、1万4千円になって戻ってきた。わずか5枚の薄っぺらい現金を手にしたとき、これで韓国旅行はおしまいだ、との想いがこみ上げた。


(終)




∵あとがき

 果たして僕は、この旅行記で「日本と変わらない」というフレーズを何度使ったのでしょう。

 韓国の列車に揺られていると、時としてここは本当に異国なのだろうか?という思いに駆られます。どこまでも続く稲穂、コンクリートの街並み、そして隣にも前にも後ろにも、座っているのは日本人と全く見分けのつかない風貌(ファッションセンスを含めて)の人達。少しまどろんで目が覚めて、「ここは日本だ」と言われれば思わず信じてしまいそうです。

 でも街角に掲げられた文字は、そして周囲で交わされる会話は決して僕には理解できません。何もかもが同じはずなのに、何一つ理解できない。「近くて遠い」と呼称される韓国を旅行することの醍醐味は、まさにそこにあります。しかし、彼らとの「交流」というものを考えた時、そこに高い壁がある事を嘆かずにはいられません。

 そして言葉だけではなく、韓国人そのものに対し、僕達は高い壁の存在を感じてはいないでしょうか。どうも韓国というのはよく分からない。我々日本人の事を嫌っているらしい。我々も韓国人を好きにはなれない…

 しかしこの韓国旅行で、僕は多くの韓国人の親切と厚意に接したように思います。ここまで親切にされたのは、初めてだったとさえ思います。それは今回が1人旅だったから、という理由ももちろんあるでしょう。でもそれだけではないはずです。時として日本語で叫ぶ事さえあった僕に対し、嫌悪感を示した韓国人は1人としていませんでした。笑顔で応えた韓国人なら幾らでもいました。

 わずか数日で何が分かる、と言われればそれまで。でも思い込みを承知であえて言えば、韓国人は日本人を嫌っていません。「日本人」というだけで敵意を示されるような時代は、とっくに終わっていました。

 韓国人は日本人を嫌ってはいない。では何故に、日韓関係はギクシャクしつづけるのか。今さらながら僕は、それは日本人の方にも問題があるのではないか、という思いに至りました。過去の戦争責任云々という歴史的経緯とは別の次元で、日本人の側にも何かしらの原因があるのです。

 それが果たして何なのか。いわゆる脱亜入欧主義の残滓をその答えとしてもいいのですが、これ以上は書かないことにします。安易に結論付けるよりも、僕自身もう少し考えたいのです。

 日韓の間には、確かに堅牢な壁があります。しかしその壁の向こうには、日本と何ら変わらない風景が広がっているのです。いつの日か壁が消えることを、いや、僕達が壁に立ち向かえる日が来ることを、願わずにはいられません。


2002.12.9
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