大韓民国・大混雑


▼第2部 忠清道(チュンチョンド)を行く

 9月21日(土)、薄曇。土曜のためかそれともチュソク(お盆)のせいなのか、大通りは静かだった。地下鉄1号線チョンガク(鍾閣)駅で券売機に600ウォンを投じ切符を買う。初乗運賃とは言え、100円もしないのだから相当に安い。改札は、バーを押して入るタイプの自動改札機である。

 ホームのつくりは、日本と全く変わりがなかった。東京で言うならば、日比谷線の駅の車両限界を大きくした雰囲気で、要するに古びていた。待つほどもなく銀色の電車が入線してくる。相互乗り入れしている国鉄の車両で、前から見ると小田急8000系・側面はJR201系に良く似ている。

 車内も日本の通勤電車と何ら変わらない。日本との相違点より類似点ばかりが目に付く。ただ一つ決定的に違うのは、匂いである。車内にニンニクの匂いが充満している。座席がさらりと埋まる程度の混み具合なのにそんなにも匂うのは、シートに染み付いてしまっているからに違いない。

 ソウル駅で下車。今日はこれからテジョン(大田)まで列車に乗り、バスに乗り継いで百済の古都であるコンジュ(公州)とプヨ(扶餘)を訪れるつもりである。テジョンまでは最上等のセマウル号とそれに次ぐムグンファ号が頻発している。帰省ラッシュのさなかであるはずだが、コンコースの混み具合はそれほどではない。この程度なら普段の新宿駅のほうがよっぽど雑踏している。空席を残している列車があるかもしれない。

 まずは総合案内所へ向かう。日本で購入した、国鉄乗り放題の「コリアレールパス」をバウチャーから現物に引き換え、さらに列車の指定も受けなくてはならない。
ソウル駅コンコース
"Excuse,me."

「はい。」

 窓口の女性は少々おぼつかないながらも日本語で答えるが、バウチャーを見せると表情が厳しくなった。

「今日は満席です。このまま列車に乗って、車掌に言ってください」

 韓国の長距離列車は殆どが全席指定だが、ムグンファ号ならば満席だと立席券が発行される。しかし立席券も渡さずに、乗車区間も何も分からないパスだけで乗れとは少々奇異だ。

「そのまま乗ればいいんですか?じゃあ、バウチャーをパスに引き換えて…」

「だから今日満席…あぁ。バウチャー」

 そこで初めて彼女は恥ずかしそうに笑い、バウチャーを受け取った。発行されたパスはバウチャーと全く同じ用紙に印刷されており、これでは僕がパスそのものを提示したと誤解したのも止むを得なかった。

 ベンチに腰掛けガイドブックを開いていると、隣に若い女の子が座った。にこっと微笑み「イルボヌ(日本人)?」と聞いてくる。大都会の雑踏で理由もなしに話し掛けてくる女の子は、日本ならば「あなたは神を…」の類と相場が決まっている。どうなる事かと思いつつうなずくと、彼女は小冊子を取り出した。「ものみの塔」とある。宗教の勧誘まで日韓何も変わらない。

 ソウル駅の場合、改札口は各ホーム毎に設けられている。パスを渡して「セオテジョン、イップサ(西大田、立席)」と告げると、係は「セォテジョン?」と聞き返してから、難なく通してくれた。ちなみに、「立席」の発音は先程ものみの塔の女の子に教えてもらった。

 ホームは工事中で薄暗かった。プサンへの新幹線(KTX)の工事が着々と進んでいるらしい。オレンジ色の客車が延々と連なり停車している。中に入って驚いた。ガラガラなのである。案内所の女性も、「満席」と即答する前に端末でも調べてくれればよかったのに、と思う。

 8時35分、ムグンファ号ナムウォン(南原)行は定刻通り動き出した。国電の複々線と並走しながら、ハンガン(漢江)を渡る。川幅いっぱいに水をたたえる岸辺に、63ビルディングが朝日を受けて輝いている。

 郊外ターミナルのヨンドゥンポ(永登浦)に停車すると、どやどやと客が乗り込んできた。僕の席にも座席指定の切符を持ったおじさんが現れたので、別の空席へと移動する。しかし、その席には次のスウォン(水原)で赤ん坊を連れた夫婦が現れる。やはり今日は混んでいるのだ。

 座席はフットレスト付きのリクライニングシートで、実に快適だ。隣の席にはなかなかお洒落な女の子が、大荷物を抱え座っている。斜め前ではチマ・チョゴリを着た女性が、前の席に足を投げ出して熟睡している。いかにも帰省列車の雰囲気である。

 列車は田園から市街地へと入り、いつの間にかキョンプ(京釜)線から分かれてホナム(湖南)線に入る。10時34分セオテジョン(西大田)着。キョンプ線のテジョン駅からは離れており、ヒュンダイとサムソンの高層マンションに挟まれた郊外駅であった。

 ともあれ、列車の写真を撮るべく先頭へ急ぐ。韓国では、鉄道施設の無断撮影は禁止されている。

"サジン、チョースムニカ(写真いいですか)?"

 駅員と機関士に尋ね、快く了承してもらう。ディーゼル機関車はアメリカンタイプの大型車で、発車時刻になると「カン、カン」とカウベルのような警笛を鳴らして力強くエンジンをふかした。

 改札を出て、切符売り場へ向かう。明日はプヨからバスでノンサン(論山)にでて、8時53分発のセマウル号に乗るつもりである。セマウルは立席不可だから、今日中に空いているのかどうか確認しなくてはならない。

 列車名と区間をハングルで書いたメモ、そしてレールパスを差し出すと、窓口氏は頷いて端末に向かった。ほどなくメモに○印がつけられる。良かった、空いているらしい。ところが入力を続ける彼の手が止まり、今度は×印が書き込まれる。返されたメモをには、手書きで「秋・多 pass No 現金」とある。Noも何も、ここまでパスでやって来たのだが。チュソク(秋夕)は多客期だから座席指定は受け付けないということだろうか。席が取れないならムグンファ号の立席しかない。

"How about ムグンファ イプサ?"と僕は尋ねた。

"イップサ。"隣で順番を待っていたおばさんが発音を訂正する。

 しかし窓口氏は首を振り、立席券を発行するどころか、メモ用紙にもう一度「現金」と書き込んだ。今日は立席で乗れたのに、明日は使えないのだろうか。あるいは、外国人専用のパスを扱い慣れていないのかもしれない。揉め事になってパスを没収されたら災難だ。とりあえず8,300ウォンでセマウル号の切符を購入した。明日ノンサン駅の窓口でもう一度掛け合ってみようと思う。

次に乗るのはコンジュ(公州)行の市外バスであるが、バスターミナルは駅や街から遠く離れている。韓国ではそれが当たり前であるらしい。タクシーに乗り"テジョンソブシウェボスコンヨントミイル(大田西部市外バス共用ターミナル)"とハングルで書いた紙を差し出すと、運転手は力強く頷いて走り出した。値段はどうなるかとメーターをみると、初乗り運賃の横にもう一つカウンターがあり、2000から数字がどんどん減ってる。つまり2kmまでは初乗りなのである。これは日本のタクシーよりも明朗会計だ。

 所要10分弱、2,200ウォンでバスターミナルに到着する。ガイドブックのハングルを頼りに運賃を確認し、窓口に並ぶ。ところが、次々に割り込みをされる。前の人と間隔を詰めて並んでみても、横から家族連れが現れて窓口をふさぐ。どうやら「順番を待つ」という文化は無いらしい。

 ようやく切符(2,800ウォン)を手にしてバスに乗り込む。デウーの大型バスで、シートはリクライニングする。車内にはラジオ放送が流れている。

 11時30分、テジョン・ターミナル発。テジョンは思いのほか大きな街で、どこまで行っても建物が並んでいる。道幅は広いが信号が多く、バスは遅々として進まない。やっと郊外に出たと思ったら、今度は渋滞。今朝以来、切符やら何やらで神経が張り詰めていたので、少々だるさを覚える。やはり1人だと疲れる。

 ようやく渋滞を抜け、12時40分コンジュ市外バスターミナル着。眼前にはクムガン(錦江/白村江)がとうとうと流れている。

 まずは昼食をと、ターミナル内の小奇麗なチェーン店風韓国料理店に入ってみる。入口脇のテーブルに座っていたおじさんが、すぐさま声をかける。客にしか見えなかったが、どうやら彼がこの店のオーナーらしい。メニューはハングルだけでさっぱり分からないので、写真を指差して麺類を注文する。厨房の奥さんが忙しく立ち回り、おじさんは水とキムチを持ってくる。

 ほどなく料理が出来上がる。一見してラーメン風だが、具は野菜のほかに油揚げが混じっている。そして汁は真っ赤。辛い。とにかく辛い。思わず天を仰ぐと、おじさんが「どうだ、辛いだろう」と誇らしげに話し掛けてくる。言葉が通じなくたってそのくらいは分かる。隣席の親子連れが、不思議そうにそして楽しそうに異国人を見つめている。

 どうにか全部平らげておじさんに代金を払う。

"イルボヌ...Japanese?"

"Yes.It's so delicious.でも、辛かったー"

 思わず日本語で叫んだ僕に、おじさんは満足げな笑みを浮かべた。

 キヨスクで市内バスの切符を730ウォンで購入。おばさんは身振りで必死にバス乗り場の位置を教えてくれる。前乗り後降りの路線バスに揺られてクムガンを渡り、さして大きくない市街地を縦貫してムリョンワンヌン(武寧王陵)で下車する。

 百済の武寧王は日本に仏教を伝えた聖明王の父にあたる。この古墳は墓荒らしに合わず大量の副葬品が出たことで有名になったのだが、それらの品は博物館に保管されており現地にはない。芝に覆われた墳丘が、山の斜面に沿って並ぶのを眺めるのみである。茂みの中に空調機が隠されていて、石室をきちんと恒温恒湿に保っているのだなと頷いたり、チマ・チョゴリを着ておめかししている小さな女の子を見かけて、いかにもお盆だなぁと感心したりしながら公園内を一周する。
コンジュ市内にて
 武寧王陵から市街地へと下っていく坂の途中には、小さな集落がある。独特の反りを見せる瓦屋根、屋上に並ぶキムチの甕。実に旅心をくすぐる佇まいである。

 市街地とクムガンのあいだにそびえる山城の跡を一周し、バスターミナルへ戻り、プヨ行の市外バスに乗ったのが15時45分。どうやらプヨ観光まで今日中に終わらすのは無理そうだ。国内外を問わず、どうも僕の立てる計画は慌しい。

 バスは片側1車線の田舎道をびゅんびゅん飛ばす。韓国のバスはとにかく飛ばす。前の車がもたつけばすぐさまクラクションを鳴らす。車内には相変わらずラジオ放送が流れている。

 「扶餘郡」の道路標識をくぐると、路肩にコスモスの花の列が寄り添う。その向こうには、稲穂が首を垂れている。日本と何ら変わらない田園風景がしばらく続き、やがて市街地へと入る。16時45分、プヨ・ターミナル着。ここのターミナルは中心市街にあり便利だ。裏を返せば、かつて百済の都として栄華を誇ったプヨは、現在は小さな田舎町に過ぎないのだ。

 ともあれまずは宿探しだ。安直にガイドブックに載っているモーテルを目指すと、1軒目はドアが閉ざされていたが、2軒目は営業していた。とは言ってもフロントは薄暗く、カウンターには鉄格子がはめてある。アルバイトのような若い女性に英語で室料を尋ねると、"Thirty five"と答えが返ってくる。

 ソウルで泊まったホテルは6,500円もした。3,500なら大いに安い。即決して5,000ウォン札を差し出すと、彼女は困った顔をする。何か言いたいのだが、英語のフレーズが思い浮かばないらしい。はたと気付く。3,500ウォンじゃなくて35,000ウォンだ。1泊350円のわけがない!ここまでバス運賃から食事まで軒並み2,000ウォン程度で済んでしまったから、金銭感覚が狂ってしまったのだ。

 詫びつつ3万ウォンを差し出すと、彼女はほっとした笑顔を浮かべ、5,000ウォン札を僕に返した。"five"はどこに行ったんだ、という気もするがつまり1泊30,000ウォンなのであり、格安には違いなかった。

 鍵を受け取って部屋に向かおうとすると、フロント脇の棚にビデオテープが並んでいるのに気がついた。「韓国の安宿は連れ込み宿と化している場合があり、AVが入口脇に並んでいたら要注意」と聞いた事がある。見たところ普通の映画のビデオのようだが、ちょっと嫌な予感がする。通された部屋のベットは、ピンク色のダブル。ますます不安がつのる。そしてバスルームとベットの間の壁がガラス張りになっているのに気がついた瞬間、僕は激しい脱力感に襲われたのであった。ちなみに後刻、そのガラス(ちょうど枕の上辺り)に小さな手形が残っているのを見つけた時には、何とも言いようのない混乱に陥った。

 ともあれ、日が暮れるまでには多少の間があった。入館17時までの国立博物館は明日行くとして、ジョンニムサジ(定林寺址)くらいは今日のうちに行ってしまおう。荷物を軽くして、フロントの女性に鍵を返す。

"Where do you come from?" "Japan."

 すると彼女は、本当にほっとした顔になり、にこやかにこう言った。

「日本語、話せます。」

 地方都市でもホテルなら日本語が通じるのか、と少々驚く。そういえば廊下には富士山の写真が掲げられていた。どうもこの宿、バックパッカー御用達なのかお2人様専用なのか定かではない。両者とも歓迎、というのが実態なのだろう。
日暮れ前のプヨ
 定林寺は繁華街の裏手にひっそりと佇んでいた。かつては百済屈指の大寺院であったそうだが、今は石塔と仏像が一つずつ残るのみである。だが、石造りの仏像の表情にはなんとも言えない親近感と崇高さが同居しており、僕はいつまでも飽きることなくその仏像と向かい合っていた。

 日の暮れたプヨの街は、賑わいを増していた。通りを若者が埋め尽くし、誰もが幸せに満ち満ちた顔をして友人達と騒いでいる。こんなにも活気があるのは、おそらく今がチュソクであるためなのだろう。皆ソウルから里帰りして、旧交を温めあっているのだ。街そのもののテンションが、おそろしく高い。そこらじゅうで同窓会が行われているようなノリである。

 写真屋とCDショップを兼ねた店があったので覗いてみる。女の子のグループが次々と入ってきて、記念写真を撮っている。幸せそうな笑い声を背中に感じつつ、僕はCDの棚でBoAのアルバムを見つけた。韓国出身の彼女のCDなら、ひょっとして売っているかも、という予測が的中したのである(BoAは韓国でのデビューの方が早い、という事は帰国後に知った)。店のおばさんは上機嫌で、他のアーティストのプロモDVDやポスターまで付けてくれた。

 夕食は適当なレストランが見つからなかったので、ロッテリアに入る。日本にはないメニューを、ということでプルコギバーガーを注文する。店内は実に混んでいる。外の通りのハイテンションがそのまま店内に持ち込まれており、騒々しく、そして底抜けに明るい。客に負けないくらい、店員の声も大きい。レジの女の子は皆、厨房に向かって大声で叫んでいる。叫びすぎてノドを押さえる子もいる。プルコギバーガーは人気商品らしく、何度もその名が大声で叫ばれる。これはまるでプルコギ戦争だ。

 すっかり熱気に当てられてホテルに戻り、TVニュースを眺める。トップニュースは高速道路の大渋滞のルポで、これは日本のお盆と変わらない。が、その後は各地のお墓参り(韓国のお墓は土盛りで、武寧王陵を小さくしたような感じだ)の映像、先日の台風で流されたお墓の修復作業、同じく被災地域の仮設住宅での祈りの光景、そして軍艦上の祭壇にひざまずく兵士達、と延々と続く。お盆が単なる夏季長期休暇と化してしまった日本と違い、韓国のチュソクは依然として宗教的色彩が強いのである。そして若者達は、海外に遊びに出る事も無く、こうして故郷へと帰ってくるのだ。


 翌9月22日(日)朝、プヨは静まり返っていた。朝のすがすがしい冷気と、昨日のどんちゃん騒ぎの食べ残しやらなにやらの腐臭が交じり合い、奇妙な倦怠感が街中に漂っていた。

 今日はまずプソサンソン(扶蘇山城)をめぐる。街とクムガンを遮るように山城がそびえ、守りを固める作りはコンジュと全く同一である。しかし城の規模はこちらの方が大きく、荷物を預けないまま来てしまったので大いに難儀する。

 城の裏手の急坂を下ると、クムガンの岸に出る。ここから市街へ戻るのに、遊覧船が出ている。運賃を尋ねるとハングルで書かれた看板を指して何か言う。数字だけは読める。どうやら2,300ウォンだが、乗客が8人集まらないと出航しないらしい。待合室には、おっさんが1人所在なげにTVを観ているだけである。今きた急坂をもう一度戻るしかないのだろうか。

 なおも乗り場の係員は韓国語でまくし立てる。首を捻っていると、突然「カシキリ、イチマンウォン」と日本語が飛び出した。まぁ遊覧船という乗り物は東西どこへ行っても高いものだから、妥協せざるを得ないだろう。頷くと、TVを観ていたおっさんが立ち上がった。何の事はない、彼が操舵手なのであった。

 茶色く濁ったクムガンを下り、プヨ市街へ戻る。あと見るべきものは街の南外れにある国立博物館だが、僕はそろそろプヨを出ようかという気になっていた。プヨ観光最大の目玉である博物館に寄らないのは酔狂かもしれない。が、この街で何よりも印象に残ったのは、百済時代の遺物ではなく、今を生きる韓国の人達の溢れ出すような活気であった。チュソクの地方都市で熱気に当てられてしまった、それでプヨは充分だという気がした。

 10時25分、ソウルへのUターン客で満席のテジョン行市外バスは、プヨの街を後にした。咲き競うコスモスに見送られつつ、バスは一路ノンサンへと向かうのであった。


(つづく)

2002.10.27
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