九州上陸・大長文 〜中編

第3章 そして諫早は今日は雨だった  97年12月17日(水) 長崎→諫早湾→島原→熊本

 8時40分発旧線経由諫早行普通列車は快速シーサイドライナー用改造車である。座席はリクライニングシートに取り替えられ網棚も新品だが、キハ58の古臭さがかえって目立っている。肝心の快速には後に新車が入ったから、幹線系統から外された長崎本線旧線区間で細々と走っているのである。車窓は序盤は意外に都会であった。長与駅などは東京のニュータウンのように綺麗で、対向列車は長崎に向かう人で満員であった。しかしその先はローカル線である。スイッチバックで峠を越えると海が見える。長崎湾でも諫早湾でもなく、大村湾の最奥部である。長崎県の海岸線を正確に把握しているのは種村直樹氏ぐらいだろう。※11東園駅などは周囲に人家が全く見えず、飯田線のようであった。

島鉄 新線なら17分のところを56分かかって諫早に着く。乗り換えた島原鉄道のDCは「うわー」と思わずつぶやいてしまうほど古色蒼然としていた。運転室との間に仕切窓がなく、「カンタク、停車」などという声が車内に良く響く。その干拓の里で下車。

 政治学を学ぶ一員である以上※12九州に来て諫早湾を避けるわけにはいかない。ゆうゆうランド干拓の里は干拓地の中にある。周囲は区画の大きな水田で、一応有効利用されているようであった。車が3台しかない広大な駐車場の中を歩き、立派な木造の門をくぐり入園。干拓史料館には干拓完成時の模型が置いてある。どーみても過剰な公共投資にしか見えないほど大きい。奇妙なのは干潟の豊かな自然についての紹介が目に付くことである。水族館に行くと、ムツゴロウが跳ねている。一体ここはどういう施設なのだろう。干潟の自然と干拓事業が相反し、いつか(今)両立しなくなることにここの人(多分県辺りからの出向だろう)は気付いているのだろうか。何のためのテーマパークなのかさっぱり分からない。庄屋屋敷、ちゃりんこ広場、ポニー乗り場と場内を一周する。1 時間以上滞在したが職員以外誰にも会わなかった。スピーカーから流れるジングルベルが空しい。雨が降ってきた。

 再び島鉄に乗り、締切り堤防に近そうな吾妻で降りる。適当な道を海に向かって歩く。ゲートボール場の向こうにコンクリートの堤防を見つけたので僕はそれを乗り越えた。一面の砂地だった。海岸線(ではもう無い)は遥か向こうだった。そしてその先に諫早湾締切り堤防が見えた。クレーンがいくつか見える。かすんで対岸は見えない。砂地に降りる。スニーカーでも難なく歩ける。白い貝殻が散在している。普通の雑草が育ち始めていることが、ここがもう干潟ではないという事実を示していた。

 駅に戻り運賃表を眺めていると、事務室から50〜60代とおぼしき女性(委託の駅員だろう)が「どちらまで?」と顔を出した。「今海を見てきたんですけど、昔はそこの堤防まで海だったんですね?」と僕は訊いてみた。おばさんによるとやはり以前はゲートボール場の裏から干潟が広がっていたそうである。吾妻の住民はほとんどが専業漁家で、干潟でアサリなどを採って暮らしていたという。しかし漁獲量は過去に比べ大幅に落ち込んでいて、干潟がなくなったことは彼らにとって絶好の転機だったらしい。住民は補助金をもらって陸に上がり、工場を建てたり諫早に勤めに出たりしているそうだ。駅裏の縫製工場や近所の真新しい邸宅もみな補助金で建てたものだという。締切り堤防の外側の住民は今でも漁業を営んでいるが、おばさんは「補助金もらったが勝ちなんだ」と何度も繰り返 した。「新聞記事では『地元でも反対の声が大きい』って書いてありましたけど、干拓事業に反対する方はいなかったんですか?」と僕は訊いてみた。「このあたりで反対する人なんて…いないねえ。」「なんて」と「いない」の間の「…」が気になったが、どう訊いていいか分からなかったし発車時刻も迫ってきたので僕はお礼を言ってホームに行った。

諫早湾 急行かづさ号は新潟鉄工製の新車であった。列車はやがて海岸に出た。締切り堤防の横をすぎると線路際を波が洗った。干拓事業 とは何なのかと僕は考えていた。「地元も反対一色」という在京マスコミの報道は恣意的なものである疑いが濃い。※13 民主党が「ムツゴロウを守れ」と叫んだところでここの人達の心には響いてこないだろう。しかし彼らが干拓に賛成しているのは「漁業に見切りを付けられるから」という理由でしかない。造成された干拓地で農水省の思惑通りに入植が行われるかどうかなんて、全く関心がないのである。彼らの新しい生活の後押しのためにしては、干拓事業は大規模過ぎはしないか。別の事業により補助金を−いや、補助金漬けの政治は問題の解決にはならない。農業がそれを示している。うーむ、これは日本政治の在り方を根本から問い掛けている問題なのか−。僕は考えた。しかしいつまで経っても堂々巡りで答えは出なかった。※14

 雨の島原市内をぐるり一周する。武家屋敷街を歩いていると近所の学校から「掃除の時間になりました。みなさんまじめに−」とアナウンスが聞こえ、続いて音楽がかかる。どこかで聞いたことがあると思ったら「恋心」であった。相川七瀬を聞 きながら歩く石畳もそれはそれで情緒がある(ホンマか?)。

 島原外港に行き16時すぎの熊本行の船に乗る。熊本まで1時間と意外に近い。しかし霧で視界が悪い。普賢岳も阿蘇も見えない。船内のTVではTVショッピングをやっている。熊本三越の提供なので異様に品がいい。

 熊本港は人工島にある。バスは干潟の上の橋を渡り、干拓地を真っ直ぐ走り、集落に入って客を拾い、田園を抜け少し町らしくなったと思うともう熊本駅であった。市電と並走する。何といきなり1編成しかない低床電車(LRT)と遭遇である。確かに低い。安全地帯と完全に同レベルであろう(玉置浩二が嫌いだという話ではない)。熊本駅はかなり町外れにあり、バスターミナルは遠かった。それにしても大きなBTで、確認できただけでも34番線まであった。バスはさらに郊外に直通する。運転手が鏡に向かってVサインをしている。後ろの僕に向かって「2つ目が下車停留所」と教えてくれているのだと気付くまでしばらくかかった。熊本港から味噌天神まで30分以上。

 水前寺YHの同室者は二人。一人は脱サラした26歳。もう一人は自称「寅さん」。もう4年も全国を放浪していて、21世紀を旅先で迎えるまで続けるのだという。世の中変わった人がいるものである。布団の中で脱サラ氏(あれ?教師だったか?)が「明日の早朝、水前寺公園に行きませんか」と変なことを言う。「面白いじゃない、行ってきなよ。」と寅さんが言う。サ「寅さんはどうですか?」「い、いや、俺は寝てるよ。」

【脚注(2005年版)】
※11 「日本列島外周気まぐれ列車」シリーズより。
※12 一応そんなもんが専攻でした。
※13 言いすぎです。
※14 若いなあ。

第4章 3か月遅れのポケモン   12月18日(木) 熊本→鹿児島→枕崎→指宿

 6時に起きて水前寺公園に行く。東海道五十三次を模した庭園らしいのだが良く分からない。老人会のラジオ体操を眺めていると夜が明けた。いい天気だ。

 8時20分発つばめ1号に乗る。言うまでもなくJR九州の看板特急である。間近に見た第一印象は「TGVみたいな外観だな」であった。車内は重厚な雰囲気。案内装置は接続列車まで丁寧に表示・放送する。座席前の網には情報紙とビュフェのメニューが挟んである。ビュフェは客室と対照的に明るく、白熱灯の醸し出す光が暖かい(ただしトンネル内のみ)。食べ物も乗車記念グッズも豊富。スピードもなかなかのもの。乗務員も美人。伝統の「燕」を名乗るだけのことはある。「サンダーバード」と共にJR特急最高峰と認定する。10時55分西鹿児島到着。

 新築したての駅舎には既に九州新幹線用スペースが確保されている。物凄い先行投資である。※15 コンコースには「青い鳥」鹿児島ロケ(指宿枕崎線開聞駅)の写真が飾ってある。一番写真うつりがいいのは永作博美(字違う?)※16であった。

 11時38分発の枕崎行鹿児島交通バスの乗り場を探す。駅前広場の外れにポールを見つけるが誰もおらず時刻表にも11時38分の表記がない。 定刻を過ぎてもバスは来ない。あれ、と思い駅の本屋で大型時刻表をめくる。38分発で間違いない。??。市観光案内所に行く。「38分発の枕崎行はそこのバス停でいいんですよね?」「そんなバスありませんよ。」「は?でもJTB時刻表に…」「12時20分にバスセンターから出る便に乗って下さい。」どうも時刻表の誤記のようだ。そうなると枕崎に14時30分までに着くためには、案内所の勧めに従い12時20分発のバスに乗るか、11時45分発の列車に乗らねばならない。後者だと指宿枕崎線をまるまる往復する羽目になるが、鹿児島交通には1円たりとも払う気が失せた。脱兎のごとくホームに舞い戻る。ディーゼルカーが煙を濛々と吐きつつ発車していくところであった。

 「鹿児島の中心地は鹿児島駅ではなく西鹿児島」というのは鉄道ファンの間での常識だが、実は西鹿児島も相当町外れである。市電で市街地に行く。天文館通りはなかなかの賑わいであったが肝心の山形屋BCはバス4台がやっと停まれる小さなものであった。枕崎までは1円どころか\1200もする。切符売り場のおばさんに「バス来なかったんだけど」と詰問すると「昔は特急バスだったから駅に寄ったんだけどねえ」と他人事のように言われた。あんまり現場職員をいじめても仕方無いのでバスに乗る。

枕崎駅 車内のスピーカーから聞いたことのない歌が流れている。「我が町鹿児島」だったりするのだろうか、と思っていたら「続いて名 古屋市の方からお便りです…」ラジオをかけているだけであった。市街地を抜けると海岸線を離れ峠越えにかかる。錦江湾と桜島がたまらなく美しい。ラジオはやがて「列島リレーニュース」に変わった。東京からは埼京線で外国人が催涙スプレーをまいたニュースが、名古屋からはSBSが3か月遅れで放送していたポケモンを放送中止にした※17ニュースが伝えられた。世の中変な出来事ばかりだな、と僕は思った。そしてそんな出来事と無縁に自分が田舎のバスに揺られていることに不思議な感動を覚えた。一本前のバスに乗れなかった事などどうでもよくなった。14時15分定刻に枕崎到着。何だかあっと言う間の2時間であった。

 枕崎はアーケード街があったりして(伊勢原にはない)意外に都会なのだが、駅だけは時代に取り残されたように煤けていた。一面しかない砂利のホームに2両の列車が到着。鹿児島で乗り遅れた列車である。海岸沿いを迂回し指宿に寄るためローカルバスにも勝てない。折り返し14時30分発に乗るが何とこの区間7時間振りの列車である。乗客は数人いたが一人降り二人降り、頴娃大川から西頴娃まではとうとう二人になった。よく廃止にならないな、と言うのが率直な感想。

 前方から開聞岳(薩摩富士)が近付き、手が届きそうなほど接近し、しかし向きを変え後方に去り、列車は止まる。僕はそこで降りた。西大山。日本最南端の駅である。※18

西大山駅 1時間後の列車まで近所を散歩する。ホームはちっこいが駅前広場は広く、屋根付きの自転車置き場には「山川中」の自転車が止 めてある。指宿よりの踏切に立つと遥か先に中学校が見えた。駅前には漬物工場がある。フォークリフトでたくあんを倉庫に運び、パートのおばちゃんが大きな容器に詰め替えているのが見える。海側は開聞岳を背景とし、見事なまでに見渡す限り畑が広がっている。ところどころで大根が干されていた。発車時刻が迫りホームに戻るとノートが置いてあるのを発見。急いで記入する。

 指宿の湯の里YHは自宅解放の小さなYHである。夕食は一人だった。奥さんは「みんな正月に向け働いてる時期ですからねぇ」と言った。何だか叱られているみたいだった(でもとてもフレンドリーな人である。このYHお勧め)。自転車を借りて砂むし温泉に行く(面白かった。温泉ファンにはお勧め)。帰ってくるとO先生似※19の御主人が「食わず嫌い王選手権」を見 ながら大笑いしていたので一緒に見る。東尾修が勝った。※20

【脚注(2005年版)】
※15 九州新幹線開通まで、あと20年くらいはかかると思っていたのですが。
※16 合ってます。ちなみに「青い鳥」は、TBSで当時半年に渡って放送されたトヨエツ主演の連続ドラマ。
※17 ポケモンを見た子供達が大量に倒れたのが、この2日前。テレ東系TV局の無い静岡では放映が遅れていた。
※18 現在の最南端はゆいレール赤嶺駅。
※19 うちの学部の教授。ワープロ版では実名でした。
※20 勘違い。勝ったのは対戦相手の青木功。


(つづく)
1998.2.11
on line 2005.6.5
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