シベリア鉄道・大遅延




▼第4部 バイカル湖

 9月20日(木)23時35分、ウラジオストック発ノボシビルスク行7列車シベリア号は定刻から8時間23分遅れてイルクーツク中央駅に到着した。シベリア鉄道屈指の主要駅のはずだが、人影は少なく、ただしんしんと冷え込んでいる。

 ここからホテルまでは送迎車がある。ドライバーがネームボードを持って待っているはずなのだが、見回してもそれらしき人物はいない。こういう時に下手に動いてはかえってまずい。そのうち来るだろうと降りた場所でじっと待つ。列車が遅れたことぐらい分かっているはずである。

 5分経ち、10分経つ。しかし迎えはやってこない。ロシア人ポーターが墓参団、もとい朝日サンツアーズ一行のスーツケースを忙しく運んでいるが、僕たちには目もくれない。

 タクシーに乗るほか無いか、と心配になってきた頃、インテリ風な若い男性が近づいてきて、アメリカ横断ウルトラクイズのばらまきクイズで回答者に「はずれ」を宣告する福留アナの如く、2つ折の紙を勢い良く僕達の前に広げた。そこに、2人の名前が書いてあった。

 迎えの車はミニバスで、左ハンドルだったからロシア車だろうか。ウラジオストックと同様、迎えとは別にドライバーが乗務している。車はアンガラ川に架かる長い橋を渡り、市街地へ入った。意外に暗いが、深夜だから当然であろう。電光式の温度計が「6℃」の文字を光らせている。

 インテリ氏に求められバウチャーを渡すと、怪訝な表情をされる。無理も無い、そこには車が向かう「バイカルビジネスセンター」ではなく、「インツーリストホテル」の名が記載されているのだから。実は当初、インツーリストホテルに泊まるはずだったのだが、会議が開催され全館貸し切りになってしまったとかで出発前に変更されたのである。かくかくしかじかとつたない英語で説明すると、一応納得はしたようでやれやれである。

 ホテルは遠く、着いた時には日付が変わっていた。しかし中々に立派で、深夜にもかかわらず金髪の若い女性が笑顔で迎えてくれる。受け取った鍵もプラスチックのカードで、ずっしりと重かったウラジオストックホテルのそれとは大分違う。しかしその鍵の使い方が良く分からず、押しても引いても部屋のドアは開かない。やむを得ずフロントに戻り先ほどの女性に開かない旨を伝える。次の瞬間僕は耳を疑った。

 彼女は即座に、゛I'm sorry."と言ったのである。

 ここはロシアである。開かない原因がおそらくはこちらにあるにもかかわらず(実際にもそうであった)謝罪の意を表するようなサービス精神に、この国の、しかも地方都市で出会えるとは正直思わなかった。少なくともここまで5日間そんな応対をされた事はなかった。

 部屋の造りも高級で、もちろんシャワーのお湯もきちんと出る。自分の金で(とは言っても、あくまで安ホテルの代替だが)こんな上等なホテルに泊まったのは初めてであり、本来なら居心地の悪さの一つでも感じかねないところであったが、さすがに疲労困憊しておりぐっすり眠った。

***

 9月21日(金)の朝がやって来た。時差の無い自宅へ電話を掛ける。もちろん部屋からダイヤル直通で繋がる。小泉が自衛隊法改正だとか何とか息巻いているらしかった。

 今日は日帰りでバイカル湖観光に出かける。午前10時、定刻通り中年の女性ガイドがやって来てワゴン車に乗る。やはりと言うべきか、僕達の他に同乗する観光客はいない。

 ロシア人女性と言うと、つい樽のように太った大女を想像してしまうが、実はそのイメージ通りの体躯の人と、びっくりするほど小柄な人の両極端が存在している。彼女(以下Iさんと表記)は後者で、ダンナが大阪大学に赴任した為に5年間箕面に住んでいたとか。こういう場合、彼女がこてこての関西弁だったりするとネタ的には面白いのだが、学校できちんと日本語を学んだのだそうで、実に綺麗な東京弁を話す。

 ホテルが想像以上に豪華で驚いたとIさんに告げると、あそこは昨年プーチン大統領と森総理(当時)が首脳会談を開いたホテルだと教えてくれた。そう言えばあの2人がシベリアの森の中を歩いている姿をTVで見たような気もするが、すっかり忘れていた。公務で行ったのに父親の墓参りをして、マスコミに叩かれていたっけ。

 あとで聞いたところによると、イルクーツクと森前総理の父親が町長を勤めていた石川県根上町は姉妹都市になっており、その縁で森パパは石川とイルクーツクに分骨して埋葬されたのだそうだ。奥様、つまり森前総理の母親は毎年イルクーツクにやって来て、墓参りを欠かさないのだと言う。こういうことは現地のガイドの方が良く知っている。

 車はバイカル湖への幹線道路を飛ばしに飛ばす、と言いたいところだが馬力が無いのか上り坂ではかなり遅くなる。時おり集落が現れるが、それ以外は森と草地の入り混じった中アップダウンを単純に繰り返していく。

 30分ほど走り、木造建築博物館に到着する。17世紀頃の建物が移築保存されており、日本でいうところの明治村だが、観光客は少ない。ただ1度ロシア人らしき若者の集団とすれ違ったきりである。その代わり職員はやたら多く、どの建物にもおばさんや学生が座っていて、退屈そうにそして寒そうに縮こまって本を読んでいる。どんよりした天気のせいもあろうが、ウラジオストックより数段寒い。紅葉も終わりかけている。来月には初雪だそうだ。

 ひさめ氏が園内の露店で絵葉書セットを買う。$5。高っ。

 さらに車はひた走る。イルクーツクはバイカル湖畔の街と思っていたが、実は50kmも離れているのだ。これで「湖畔」と呼べるのならば、我が伊勢原市だって東京都心である。

バイカル湖 やがて道はアンガラ川に沿って登りにかかる。広大な川幅いっぱいに水が流れている。そして唐突に、本当に唐突に川は終わりを迎えた。一線を境に、あとは海原が広がるばかりである。むろんバイカル湖である。面積ではビクトリア湖(アフリカ)他に劣るものの、深いから保有水量では世界一の淡水湖である。

 湖畔に小さな村があり、教会に立ち寄る。リゾート地のような静かな佇まいの村だが、御二人様用かと見まごうような毒々しい色のホテルが建設中だったりする。観光開発の波が押し寄せ始めているのかもしれない。

 折角だから船に乗りましょう、ということで車は港に止まった。地元のオバちゃんが魚を丸焼きにして売っており、煙が立ち込めている。遊覧船が運航されているのかと思いきや、Iさんは船主と交渉を始めた。シーズンオフで客がいないためか商談は大いに時間がかかり、結局30分コースで1人500Pとなる。著しく高いと思うが、ここまで来て乗らずに帰るのも悔しいからそれで良しとする。

 湖上はさすがに寒かった。船主が貸してくれたジャケットがありがたかった。波は荒く、漁船のような小船は揺れに揺れた。Iさんは何度か船室から出てきて「寒くないですか、中に入りませんか」と言ってくれたが、僕達はずっとデッキにいた。

 陸に戻ればお昼時、日程表によれば「オオモリ料理を賞味」とある。小粋なレストランでもあるのだろうか、と思っていると連れて行かれたのはインツーリスト系バイカルホテルのレストランであった。オオモリ(オムーリと表記されることが多い)はバイカル湖固有の白身魚で、ちょっと小骨が多いが味はまあまあ。次いで出てきた別の魚のムニエルか何かの方が美味であった。

 それにしてもこのバイカルといいウラジオストックホテルといい、どうしてロシアのウエイトレスはそんなになまめかしい衣装なのだろう。バーにいるような気分である。やっぱり感覚が違うんだなぁと思う。

 お次はバイカル博物館へ。大きさは博物館と言うより展示室だが、展示物は充実していた。Iさんは館内に積んである棒を1本拝借して、熱心に解説してくれた。こういう場所はガイドをつけているとなかなかに面白い。
イルクーツク市内
 イルクーツクへの帰りの車の中で、Iさんとひさめ氏が談笑しているのを尻目にとろとろ眠る。前にリボンで装飾した派手派手しい車がいて、イルクーツクで挙式した新婚カップルがバイカル湖へ遊び行った帰りだ、という話をしていたのは覚えている。

 やがて車は市街へと入る。昨日は真っ暗でよく分からなかったが、なかなか大きい街で、ウラジオストックより賑やかである。ちなみにレーニン像はまだ残っているが、その背後のビルにサムソンの大看板が掲げられているのがいかにも今のロシアらしい。

 中心部の広場で下車。ロシア正教会の葱坊主とカトリックの尖塔が隣接している。後者はポーランド移民の為の教会だとか。夢うつつに見かけたカラフルな車がここにも止まっている。挙式をしたカップルは広場内にある戦没者を弔う「永遠の火」に献花をするのが慣わしなのだそうだ。見ると小雨の中タキシード&ウェディングドレスの新郎新婦と、友人達と思しき一団が何組かいる。既に夕方だから、永遠の火の前には花束が山と積まれていた。

 公園の裏手は陸橋になっていて、アンガラ川が良く見渡せる。アンガラ川といえば、中学生の頃読んだシベリア鉄道旅行記に井上靖『おろしや国酔夢譚』の一部が引用されていたのを思い出す。200年前にロシアへ漂着した大黒屋光太夫の伝記『おろしや〜』自体は読んだ事が無いが、引用部分だけは良く印象に残っている。

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 アンガラ川の岸は人で埋まっていた。きのうまで川幅いっぱいに張り詰めていた分厚い氷の板は、何千何万かの氷塊に割れ、それが、神からの出動命令でも降ったかのように、いっせいに動き出したのである。川の中ほどは既に流れの速さを見せて、氷塊の群れは互いに体をぶつけ合いながら、押し合いへし合い下手へ下手へと流れている。(中略)岸辺に群がっている人々は、老幼男女の別なく、ただ黙ってアンガラ川の異変を見守っていた。何人かの老人が地面にひざまづいて祈っている。
「今年は百七日目に川が青い姿を見せた」
 光太夫は傍で中年の女性が独言しているのを聞いた。アンガラ川は百七日間氷結していたが、漸く今日溶け始めたという感慨を、女は胸に抱きしめているのであった。
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 僕をシベリアへと誘った要素の一つとも言える名文である。ところがIさんによれば、アンガラ川は現在では真冬でも凍結しないそうだ。理由はこの川に巨大なダムが建設されたから。さすが旧ソ連邦、やる事とその影響度がでかすぎる。

 川を眺めていると、献花を終えた結婚式ご一行がやってきた。当然の如くテンションは高く、陸橋下を走る車に向かって気勢をあげている。行き交う車もクラクションを鳴らし応える。こういう光景は理由抜きに心が温まる。

 次はズメナンスキー修道院へ。折りしもミサの最中で、極めて厳粛な雰囲気。庭にはデカプリストの墓がひっそりと立っている。デカプリストとはかつて帝政ロシアに反旗を翻しこの地に流された革命者のことである。「レオナルド・デカプリオのファンか何かと思った」などとボケてはいけない。なお、この発言は僕ではなくひさめ氏のものであることを付け加えておく。

 17時を過ぎ、道路は実に混んでいる。ウラジオストックではほとんどが日本車だったが、イルクーツクではそのシェアは6割程度といったところか。日本海に面したウラジオストックと差が出てくるのは道理だが、それにしてもこんな内陸までどうやって運んでくるのだろう。同じ疑問をひさめ氏がIさんに投げかけた。お金があれば鉄道で、なければ自分で運転するのだそうだ。運転を請け負う商売もあるらしい。

 「でも道路はあまり良くないです」とIさんは続けた。舗装が悪いのかと思ったがそうではなく、道中車を止めて金をせびる輩が絶えないのだそうだ。

 最後にアンガラ川のほとりのオベリスクへ。シベリア鉄道開通を記念するもので、元は皇帝の像だったが革命後に現在の姿に変えられたという。レリーフの施された帝政時代のままの台座と、無粋なコンクリートの標柱のアンバランスが、近現代通じて混乱の絶えないこの国の歴史を垣間見せていた。

 Iさんを自宅近くで下ろし、車はホテルへと戻った。夕食はホテルのレストラン、ただしここではなく隣のホテルに行く。我がバイカルビジネスセンターはプーチン・森会談の会場だが、お隣サンホテルは森前総理の宿泊地になっていたのである。2軒の高級ホテル双方の顔を立てたと言う事だろうが、それならば隣がどのくらい高級かも確かめておきたい。

 お隣のレストランは高級な雰囲気だが、幸いしかるべき服装が要求されるほどではなかった。価格も日本人の感覚からすれば許容範囲内である。肝心の味も良好。と言うより、高級ホテルだから味も高級だろうと思い込んでいる節もまあある。

 単純にぶるじょあな気分に浸った我々は調子に乗って、結構高かったにもかかわらず食後の紅茶を頼んだ。ところが出てきたのはティーバックであった。こうなってくると今しがた食べたビーフストロガノフまでもがまっとうなシロモノとは思えなくなってくるのが不思議なところである。

 支払いの段になって、はたと考え込んでしまう。「支払いを、って何て言うんだっけ?」「check…だった、ような気も」「…bill、は違うよなあ。」「う〜〜ん。」で、結局僕が発した言葉は゛Excuse me,Счёт,пожалуйста"「…ロシア語が出てくるとは思わんかった」とひさめ氏はボソッとつぶやいた。全くである。しかしまぁ、通勤電車の中で数週間、会話集を読み込んでおいた甲斐があったのは何よりである。

(つづく)
2001.12.30
on line 2002.8.25
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