シベリア鉄道・大遅延

乗車券(表紙+2枚綴り)


▼第3部 シベリア鉄道

 9月17日(月)21時35分、7列車シベリア号ノボシビルスク行は5時間57分の遅れでウラジオストック駅を後にした。なお時刻表記は現地時刻である。車内通路に掲げられたカラー刷りの時刻表(こんなに遅れては役に立たないが)はモスクワ時刻だが、ウラジオストック駅の電光表示は現地時刻であったから、どうも混用しているらしい。

 発車時点での乗車率は6〜7割と言ったところか、僕達のコンパートメントには相客はない。まもなく中年の女性車掌がやって来て2枚つづりの切符の1枚を回収し、シーツを渡してくれる。21P也。検札を全て終えると、彼女は通路に丁寧にじゅうたんを敷き始めた。ロシアの列車には各車両ごとに車掌が2人いると聞いていたが、どうやら1人勤務らしい。人員削減があったのか、それとも看板列車のロシア号でないためなのかは分からない。

 窓の外には川とも湾とも区別のつかない水面が黒々と続いている。乗車時には真っ暗だった車内が、明るくなっている事に気が付く。スピードがつくと照明が灯るようだ。しかし我がコンパートメントだけスイッチをひねっても蛍光灯は消えたままである。カバーをバシバシ叩けば灯ることに気がついたのは、翌日の夜であった。
コンパートメント内
 複線のはずなのに対向列車の待ち合わせがあり、その後も時おりノロノロ運転になる。22時16分、最初の停車駅ウゴリナヤУгольнаяに到着。意外に多くの乗客がありすぐに発車。

 あのフェリー乗り場で食べたピロシキでお腹は膨らんでおり、もう寝る事にする。2人とも下段寝台が指定されている。ただし「老人が乗ってきたら下段を譲るのがマナー」と『地球の歩き方』には書いてある。

「夜中に乗ってきたらヤだなぁ」

 しかしその予感は現実のものとなった。

***

 昨晩は蚊に悩まされたし、出発前の晩もよく眠れなかったのだが、それでも夜行列車内では僕は熟睡できない。目が覚めると、列車は止まっていた。時刻は9月18日(火)の午前2時を回ったところだったろうか。

 コンパートメントの扉が開き、金髪の女性が入ってきた。挨拶ぐらいはしとこうかと起きだすと、抑揚のないロシア語で一方的にしゃべりだした。皆目分からないが、傍らに6、7歳くらいの男の子を連れていたのでピンと来る。布団をたたんで上段に移動する。彼女は当然と言わんばかりに無表情にそれを眺めていたが、後から入ってきた父親が済まなそうに「スパシーバ(ありがとう)」と言った。

 何時の間にか列車はハイスピードで走り出していた。上段ベットは実によく揺れた。なぜか有隣堂厚木店でひさめ氏に追い掛け回される(それもかなりしつこく)夢を見る。

 窓外が明るくなったのに気付き時計を見ると、10時を回っていた。意外によく眠ったらしい。日本で調べてきた運転時刻と昨日の発時刻を勘案すると、ハバロフスクХабаровскを出発したところと思われたが、キロポストを見るとまだその手前であった。遅れは回復できてないらしい。

 朝食はハバロフスクで何か買うことにする。

「でもハバロフに着くの11時過ぎちゃいそうだよ」と僕は言った。

「いや、私ん中では午前9時だから」

「へえ、もうイルクーツク時間にしてるの、用意周到だなぁ」

「いや。面倒くさいから、日本時間から変えてない」 …おいおい。

 そのハバロフスクには11時を40分もまわって到着。しかしホームには売店も売り子もなく、地下通路にはフルーツしかなく、それ以上遠くへ行って乗り遅れては大変だから引き返す。ウラジオストックでできなかった機関車の撮影でもしておこうとカメラを向けると、その場にいた機関士たちに一斉に怒鳴られる。駄目なときは何をやっても駄目である。

 結局ハバロフスクは12時03分に発車、定刻から6時間28分の遅れで、回復するどころか一晩で30分も拡大していた。食事は日本で買ってきた味噌汁とカップヌードル(これが味噌ラーメンで…)となる。各車両にサモワール(湯沸し器)が備えられており、お湯だけは困らない。さすが極寒の地を行く汽車である。

 程なくアムール川を渡る。全長2.5kmの大鉄橋だが、単線で輸送上ネックになっていると言う人と、トンネルが並行していると言う人がある。さてどうなるかと思っていると列車は勾配を下り始めた。そしてトンネルに入り、車内は真っ暗となった。速度が低いせいか車掌がスイッチを入れ忘れているのか、車内灯がつかない。こんなに暗い空間に身を置いたのはいつぶりだろう、と考えをめぐらすほどの漆黒の闇である。

 トンネルを抜けると列車はようやく速度を上げ始めた。周囲は一面の草原で、文字通り草しかない大地に送電線だけが並行して通じている。シベリア鉄道は全線白樺林の中を走るのだとばかり思っていたので、少々意外な景観である。

 14時10分、ビロビジャンБиробиджан着、6時間17分遅れ。日本出発前には、ハバロフスクとここの間だけシベリア鉄道に乗る案もあった。街は案外大きそうだ。

 そういえば何時の間にか昨夜乗った親子連れが消えている。祖父母と同じコンパートメントに車掌が移してくれたらしい。何か理由ありのようで、母親は時おりさめざめと泣いていた。そういう一家とお気楽な外国人観光客が膝を突き合わせるのが鉄道旅行の醍醐味ではあるけれど、あんまりにテンションが低かったので正直移ってくれてホッとした。また誰か来ると面倒くさいので、そのまま上段に居座る事にする。

 14時58分、ビラБира着。15分の停車予定を5分に縮めるがそれでも6時間21分の遅れ。通常僕は、車中では熱心に外を眺めるか寝るかだが、今回はさすがに文庫本を持ってきた。西村京太郎『シベリア鉄道殺人事件』(講談社文庫 1996)。推理小説なので詳細は述べないが、ロシアに対する偏見が感じられいまいち。しかし他にやる事がないので、実にさくさくと読み進んでいく。
途中駅での買物風景。左端が元同室の一家。
 17時12分、オブルチエОблучьеに6時間24分の遅れで到着。ホームに地元住民が集まり、食べ物を売っている。乗客が一斉に降りるので、後に続こうと…コンパートメントのドアが閉まらない。押しても引いても動かない。仕方なくそのまま外に出て、ひさめ氏にその話をしていると、日本人のガラの悪いおっさんがいて「あんなの思いっきり引けばいいだけじゃないか」と言う。どうやらウラジオストックで見かけた墓参団一行もこの列車に乗っているらしい。

 気がつくとひさめ氏が日本人熟年夫婦と話し込んでいた。それによると、墓参団だと思っていたのは朝日サンツアーズの団体旅行客で、半月ほどかけてモスクワの向こう、サンクトペテルブルグСанкт-Петербургまで鉄道の旅を続けるらしい。お金と暇があるんだろうがやる事が豪快である。

 列車はようやく暮れてきた草原や林間をひた走り、ときに徐行し、19時52分アルハラАруараに6時間52分の遅れで到着。我がコンパートメントに小柄なおばあさんが乗り込む。おばあさんは英語は解さず僕達はロシア語が分からないが、何とかコミュニケーションを取ろうとしてくれる。

 おばあさんが使い古したペットボトルに入った牛乳を取り出し、僕達にも勧めてくれた。お腹は大丈夫かなと心配したがありがたく頂戴する。搾りたての、牧場の牛乳のような野性味がした。

 時計を1時間戻し、19時30分(日本時間18時30分)ブレヤБчрея着、20時07分ザヴィタヤЗавитая着。6時間29分の遅れで、明日はどのくらいの遅れになるだろうかと思いつつ就寝。

***

 9月19日(水)、未明にどこかの駅の止まる。大きな駅のようで、車外が賑やかだ。真下のベットに男性客が入り、満室になった。

 相変わらず眠りは浅く、妙な夢を見る。えらく後味のいいラブストーリーで、自宅で見たならば小説にでもしたかもしれないが(嘘)、もう忘れてしまった。ついでに昨晩乗ったはずの男性が消えている。それは夢ではなかったはずなのだが。

 朝からいい天気だ。列車は見事な紅葉の中を左右にカーブを切っている。夜中にはずいぶんと飛ばしていたような気がするが、日が昇ると線路工事が始まるのかそれとも寝ていると揺れが大きく感じられるのか、徐行に近い走り方である。スコヴォロディノСковородиноを9時ちょうどに発車、遅れはとうとう7時間を越えて7時間40分となっている。

 コンパートメントのドアが開いて車掌が姿を現し、いまだ熟睡しているおばあさんを睨みつけている。実は彼女、シーツ代の支払いを拒否してベットにそのまま寝転んでいる。しょうがないわねこの婆さんは、と車掌は彼女を起こし、二言三言声をかけて去っていった。我関せずとおばあさんは再び寝に入る。

 ほどなく列車はウルシャУрушаの構内に差し掛かり停車した。途端におばあさんは跳ね起き、あたりを見回すと慌てだし、ひさめ氏のベット下から荷物を取り出してばたばたと下車していった。わずか2分の停車で9時40分発、後には彼女のミルクカップ代わりのガラス瓶だけが残された。

 車窓に展開する紅葉も、冴えないスピードも変化せず、列車はとろとろと西へ走る。すれ違う列車はほとんどが貨物列車である。運転頻度はさほどではない(10〜20分おきくらいか?)が、かなり長い。数えてみると60両を越える。それよりなにより、その貨車に振られた番号が一千万の位に達しているのが、日本人の感覚からして信じられない。

 11時45分、6時間46分とそれでも遅れは縮まってエロフェイ・バーヴロヴィチЕрофей Павловичに到着。確かこの駅だったと思うが、昨日と同様にホームに地元のおばさんがお店を出している。乗客はいっせいに、無論僕達も外に出て品定めを始めた。

 と、にわかに周りが騒々しくなった。振り返ると、なんと列車が動き出しているではないか。慌ててかけ戻るが、僕達の号車の入口ではおばさんが重たい尻を上げるのに四苦八苦している。こういう時は手助けするのが人情だが、僕もひさめ氏もそんな余裕はない。1両後ろのデッキから男性車掌が身を乗り出して、何か叫んでいる。「早く乗れ」とも「まだ大丈夫だ」とも聞こえる。どちらかと言えば後者のような気がしたがとにかくそちらへ走りよじ登った。次の瞬間、列車は止まった。

 何とか全員が乗り込めたようだが、列車は再び動こうとはしない。既に無ダイヤ状態だからいつ発車するのか分からない。案内放送もない。そもそも発車以来、音楽は流れても放送なんて1度も流れていない。ホームでは地元のおばさんが辛抱強く客を待っているが、もう誰も降りようとはしない。諦めて撤収する人も出だした。

 その時、我が車両から1人がのそのそと買物に出ていった。「度胸あるなぁ」と思ってよくよく眺めるとそれは車掌であった。

 結局再び動き出したのは、発車騒ぎから10分以上もたった12時08分であった。何も買えなかったような気もするし、少ないパンを分け合って遅い朝食を取った気もする。そう言えばクッキー買ったかもしれない。あ、それは昨日だ。メモとっておけばよかった。

 標高が上がったのか、日陰に雪が現れた。ひさめ氏が珍しがって写真を撮る。が、それは時期尚早でやがて一面の雪原の中を走るようになった。なおも登り、峠の頂上のような場所で集落が現れ列車は止まった。アマザルАмазар、だった思う。14時25分着で遅れは7時間17分。
苦労した1枚
 ここも停車時間が長そうな駅で、物売りはあまりいないが鉄道関係者が多い。各車両から土のホームに取り付けられた給水口へとホースが伸びている。後方からはトラックがやって来て、各デッキから車掌が差し出すバケツに暖房用の石炭を入れていく。僕はと言えば、先頭部に走り機関車の写真を撮ってまた機関士に怒鳴られた。20分後動き出すと、どうやら下り坂に転じたようだ。やがて雪は消えて、再び紅葉の中を走る。

 風景はさして変わらず読書が進む。西村京太郎は既に読破し、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(新潮文庫 1961)に取り掛かっている。シベリア鉄道車内で読む銀河鉄道、なかなかオツである。

 昼食は2度目のカップヌードル。選択を間違え唐辛子入りを買ってしまい、しかも汁を捨てるところがないので無理に飲み干す。唇が焼け、胃が存在感を示している。幸いにさほど痛みはしなかったが。

 16時25分、モゴチャМогоча着、37分発。18時44分、クセニエフスカヤКсеньевская着、47分発。7時間29分遅れ。景色を眺める気力はいっそう失せて、時間だけがまったりと流れていく。

 一度くらいは食堂車に行こうという話を昼間からしていたので、日が暮れたのを見計らい貫通路を3つほど渡る。食堂車に入ると、半分ほどのスペースを墓参団が占めているが、他には誰もいない。ウエイトレスが面倒くさそうに出てきて、ロシア語でまくし立てる。とても注文を受けてくれそうな雰囲気ではなく、何よりも言葉が全く通じない。

 まごついていると一番手前のテーブルにいたおっさんが「あんたロシア語話せるの?」と話し掛けてきた。見ると昨日オブルチエでドア話に口をはさんできたおっさんである。彼は流暢なロシア語で通訳をしてくれ、スープと簡単な肉料理なら出せるそうだと教えてくれた。

 そういうわけで何とか食事にありつけた。しかしこの時僕の胃は、あのストラスブールの再来、という程ではないにせよ芳しい状態ではなかったのである。気を紛らわせる為に昨今のJ-POPの趨勢(端的に言えば、今にしていかにSPEEDがすごいアイドルグループだったか分かったという話)について熱弁を振るったのは覚えているが、肝心の料理の内容は思い出せない。本当にスープと肉だけで、コーヒーの注文さえ取ってくれなかったのは確かである。

 まぁ、原因は唐辛子汁を飲み干したあたりにあるんでしょうね、やっぱり。

***

 9月20日(木)、今日起き掛けに見た夢は「百獣戦隊ガオレンジャー」の最終回であった。ロシアくんだりまで来て特定のサイトの影響をまともに食らっている気がするが、内容は大量虐殺系だったのでここでは伏せておく。

 何時の間にか真下のベットに30〜40代ののロシア人男性が入っている。彼もひさめ氏も起きだす気配がないので、通路に出て外を眺める。とはいっても一面朝霧の中だ。

 おばさんが1人通路に出てきて何か言う。言葉は分からないが意は通じて荷物運びを手伝う。9時25分、7時間37分遅れでモグゾンМогзонに到着。閑散としたホームに降りると、空気が冷たい。伸びを1つして車内に戻ると、車掌が待ちかねたように扉を閉めた。

 通路の椅子を引き出し、本を読んだり外を眺めたりしていると、ロシア人の小さな男の子が車のおもちゃを走らせながらやって来た。昨日から盛んに通路をうろちょろしている子で、時々僕達のコンパートメントを興味深げにのぞきこんでいたりした。僕が気になるのかちょっとづつ近づいてきて、にこっと笑う。こういう屈託ない笑いは万国共通でかわいらしい。

 で、午前中ずっとこの男の子と遊んで過ごす。自動車に興味があるらしく、窓の外に見かけるたび「マシーナ、マシーナ!」と嬉しそうに指差す。鉄道に興味を示したのは、どこかの通過駅の構内に蒸気機関車の廃車がずらりと並んでいた時だけであった。

 12時10分、ヒロクХилок着。遅れはついについに8時間23分と8時間を突破した。駅でもないところで度々停まったから当然だが、目指すイルクーツク到着は定刻で15時12分(現地時刻)、遅れがあと30分拡大すれば日付が変わってしまう。

 車窓に明らかな変化が出てきた。森林を抜け、あたりは一面の草原となった。次々と集落が現れるが、わが7列車は轟然と通過する。昨日まではどの町にも止まってきたのだが、人口密度が増して(といっても北海道より疎らだが)かえって優等列車らしい走りとなったようだ。一度など支線が合流し、空港まである町を通過したのでびっくりした。あとで写真を見たら民間空港ではなく軍事基地だったが(無論写真撮影は厳禁である。見つからなくて良かった)。

 ひさめ氏から水野晴男『シベリア超特急連続殺人事件』を借りて読む。一昨日の西村京太郎をハイパーにしたようなタイトルである。うーん、目の付け所は面白い話なのだが…。

 14時50分、8時間38分遅れでペトロフスキー・ザヴォードПетровскии Заводに到着。何度目かの食料買出しでじゃが芋を買う。ピロシキもペリメニ(水餃子)もおいしいが、案外芋みたいな単純明快な品の方が印象に残ったりする。

 それにしても今日の暖房の効き具合はどうした事か。サウナかと思うほど暖かい。ロシア人と温度の感覚がずれているわけではなく、みな暑がっている。コンパートメントの窓は開かないので、通路(これもほとんど開かない)や暖房の入らないデッキに出て涼を取る。まったりを通り越してぐったりとしてきた。早くイルクーツクに着かないかなと願う。モスクワまで乗る旅行じゃなくて良かったと正直思う。

 相変わらず臨時停車と徐行が繰り返される。側線とも駅とも分からぬところに何度か停まるうち、オノホイОнохойを過ぎてしまった。これまで昼間の停車駅は全て時刻をメモしてきたのだが、この期に及んで取りこぼしたのは悔しい。ともあれ、オノホイからはイルクーツク時間となる。経度は大分ずれているが日本と時差がなくなる。

 やがて周囲が騒がしくなってきた。通路には続々と荷物が運び出され、みな暑い中上着を羽織りだした。あの男の子も自分のコンパートメントに戻り、ほとんど話をする事のなかった同室の男性もせわしなげにしている。ずっとこざっぱりとした格好だった車掌も、いかめしい制服をきちんと着用した。大きな駅が近づいている事が感覚的に分かる。やがて列車は幅の広いホームに進入した。16時12分、ブリヤート共和国の首都、ウラン・ウデУлан-удэである。

 ホームはこれまでのどの駅よりも雑踏している。乗客の7割くらいが降り、代わって何人かが乗ってくる。一体どの位持ち込んだのかと思うくらい、若い男性が荷物を抱えてコンパートメントとホームを幾度も行き来している。モンゴル系の若いカップルが僕達に切符を見せ、どのコンパートメントに入ればいいのか訊いてくる。こんな可愛らしい女性が同室だったら嬉しいなと思うが、残念ながらはるか向こうの部屋の切符であった。

 ホームに降りてみる。入口付近には何人もの客がとどまっていて、互いに別れを惜しんでいる。さっきのモンゴル人カップルもいる。どうやらロシア軍服を着た男の方だけが乗るらしい。日本では滅多に見られない、汽車旅の物悲しさが垣間見えている。

 16時40分、8時間31分の遅れでウラン・ウデを発車。結構乗客があったように思っていたが、車内はひときわ閑散としてしまった。しかし沿線の人家はさらに増え、旅客列車と頻繁にすれ違う。近郊電車用の短いホームが頻繁に現れる。そして家並みの向こうにバイカル湖が見えてきた。旅も終わりにかかる雰囲気となり、事実イルクーツクまではあと3駅なのだが、その3駅に7時間位かかる。

 18時54分にムィソヴァヤМысоваяを8時間28分遅れで発車すると、線路は湖岸すれすれに寄り添った。実に茫漠とした眺めである。バイカル湖は南北に細長い三日月形をしており、見えているのはその幅が細い方の対岸であるはずだが、それでもかなり遠い。あんな遠くまで今日中に行くのかと思う。風によるものか波が立っており、テトラポットが水中に沈んでいる。乗客は皆通路側に出て、黙ってそれを眺めていた。そして対岸に日が沈んだ。

 乗車以来4冊目となる、宮脇俊三『古代史紀行』(講談社文庫 1994)を開く。改めて宮脇さんの文章力に惚れ惚れとする。車内は静まり返っている。ようやく快速を取り戻した列車の走行音だけが規則的に響いている。

 21時23分、スリュジャンカСлюдянка着。ホームに並ぶ売店の明かりがまぶしい。遅れは8時間26分、どうやら今日のうちにイルクーツクに着けそうである。

 4日間の「生活」の痕跡が散らばるコンパートメントを片付ける。上着を引っ張り出す。車掌が駅が近い事を告げにやって来る。窓外にぽつぽつと明かりが灯り、貨物ヤード脇をゆっくりと通過する。やがて通路側に黒々とした水面が広がった。バイカル湖から流れ出たアンガラ川に違いない。ごとりごとりとポイントをゆっくり渡り、低いホームが現れた。

 23時35分、イルクーツク中央Иркутск-Пассに到着。定刻から8時間23分の遅れ、ウラジオストックからの所要時間も所定より2時間26分余計にかかり、実に74時間の長旅となった。

 車掌に「ダスヴィダーニャ(さようなら)」と告げて僕達はタラップを降りた。冷たい夜気に包まれたホームは静かだった。


(つづく)
2001.11.18
on line 2002.8.25
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