シベリア鉄道・大遅延




▼第2部 ウラジオストック

 ウラジオストック Владивостокは新潟より西にある。経度は大体広島と同じくらい。しかるに日本とウラジオストックには時差が+2時間ある。西に行くのに、である。どうもしっくりこない。

 とにかく、ウラジオストック時間では9月16日(土)17時40分の離陸、夕食が出る。プラスチックの透明ケースに入ったパンやらサラミやらで、あまり大した事はない。そのあとデザートに林檎が出る。丸々1個がそのまま配られる。噂には聞いていたが、なんとも豪快である。

 食事が済んでしまうと、する事がない。新聞は全部ロシア語だし、オーディオ設備もない。機内の放送は最初の挨拶以外日本語が無く、さっぱりわからない。しかし所要時間はわずか1時間半であるから、程なく降下が始まった。

 雲の切れ間からロシアの大地が見えてきた。どうやら酪農地帯のようで、北海道をさらに雄大にしたような光景である。草原の中を線路が通じ、貨物列車が信号待ちをしているのが見える。見渡す限り陸地である。

「おかしいな、ウラジオストックは港町のはずなのに」

「あ、そうなんだ」

 断っておくが、後者がひさめ氏の発言である。

 草原の真ん中に着陸、滑走路の舗装状態が悪く大きく揺れた。19時10分(日本時間17時10分)の予定時刻と大差なかったように思う。機は停止し、即座にエンジンが切られ照明が消えた。駐機場まで着いたから仕事はおしまい、ということだろうか。

 エンジン音もなく静まり返った飛行機にタラップ車が近づいてきた。ハンドルを握るのはおばさんである。周りを犬がうろうろしており、ひさめ氏が「ウラジオ君」というどうでもいい名前をつける。外はそれほど寒くはなく、長袖1枚で何とかなりそうだ。

 バスで事務所然とした建物へ運ばれると、通路も何もなくいきなり入国審査のブースが並んでいる。ひたすら時間がかかるロシア式事務処理の洗礼をここで受けるとガイドブックには書いてあるが、思ったほど時間はかからず、質問もされなかったので拍子抜けである。

 ところがブースを抜けると、もう1つカウンターがあり列が伸びている。税関か?と思ったがまだ預け荷物は受け取っていない。申告書をチェックしている風もない。どうもよく分からないがまぁ並ぶ(今調べたらやはり税関だった模様)。入国審査は4列だったがここは2列で動線がぐちゃぐちゃ。他のブースから出てきた青山学院大学の連中に次々と横入りを食らう。ロシア人の手続が遅いのは許す。それは各国それぞれの流儀だから従うほかない。しかし同じ日本人に邪魔されるのは極めて不快である。が、ここで揉め事を起こしてロシアの官憲ににらまれるのは冗談ではないので泣き寝入りする他無い。

 ようやく手続を終え、荷物を受け取ると今度こそきっちりと税関検査がある。荷物を開けさせられている人が何人もいるが、幸い僕達はノーチェックで、女性の係員が申告書にスタンプを押しただけで通過。

 狭い出口を出ると到着ロビーの雑踏に放り出される。早速「タクシー?」と言い寄ってくる男がいて緊張する。迎えのガイドはすぐに見つかった。ロシア人の綺麗な女性で、日本語も流暢に近いので安心する。ドライバーは別のオッチャンで、車は日本製のワゴン車である。ちなみに客は僕達2人だけであった。

 車は空港を出るや、物凄いスピードで飛ばす。ガイドによると、ここから市街までは60kmもあるという。なんとも遠くに作ったもので、道理で海が見えないわけだ。

 20時を回ったが外はまだ明るい。市街地への道は交通量が多いが、そのほとんどが日本車である。しかし中古の為か、日本車にもかかわらずメンテがなっていない。黒煙をもうもうと上げながら走っていたりするし、市街に入るまでに3台もエンコしていた。

 路線バスの停留所が頻繁に設けられている。いずれもコンクリート製の待合室が設けられていて、何人もの客がたむろしている。時おりバスを追い抜くが、立客もかなり出ているようである。車が多い一方で公共交通機関への依存度も高いらしい。

 やがてコンクリート製の団地が幾棟も現れ、トロリーバスを追い抜き路面電車の線路を横切って、市街を通過する。さらに走ってようやく着いたのが今宵の宿、その名もウラジオストックホテルである。中々大きいがボロそうである。

 ガイドに促されバウチャーを出す。ピンク色でペラペラのB5用紙に、このホテルの代金が支払済みであることが記してある。発行はインツーリスト・ジャパン、ソ連邦時代の国営旅行社である。今でもロシア旅行は事前にバウチャーの発行を受けるのが基本らしい。ただし航空券と列車の切符は現物を出発前に受け取っている。

 次にパスポートを預ける。これは明朝返してくれるとの事。そして部屋番号の書かれた紙を貰い、エレベーターへ。各階に座っているおばちゃんから鍵を受け取ってようやく部屋へ。何かと勝手が違う。

 部屋はまあまあ。比較対象になる去年のロンドンの宿がひどすぎたから当然かもしれない。さすがに疲れたので食事に行く気も両替する気も起きない。シャワーを浴びようとしたが鉄臭い水しか出なかったのでこれも諦め、TVをつけてごろごろする。CMが案外洗練されていて、むしろハワイで見たものよりも日本人の感性に合っている。が、肝心の番組はつまらなかったので結局台湾の番組を見た。NHKのBSは入っていない。

 疲れた疲れたと言っている割には何時の間にか0時を越えてしまったので寝る。しかし蚊が多く、1人当たり2〜3匹と格闘しなくてはならなかった。

***

 さて、9月17日(月)の夜が明けた。

 昨日部屋に入ったときは日が暮れていたので気がつかなかったが、窓の向こうは海であった。どんよりと灰色の空の下、海面が冷たく波立っている。ああ、最果てへ来たのだ、という実感が湧く(本当は日本の方が僻地なのだが)。

 目玉焼きなど案外きちんとした朝食を取り、それからパスポートを返してもらう。見るとロシア入国のスタンプの下にホテルのスタンプが2個押してある。空港でも2つ押されたから、これでロシアのスタンプは4個目。ソ連時代には出入国のスタンプがなくビザも切り取り式だったので、パスポートに旅行の痕跡が全く残らないと聞いていたが、残りまくっている。そう言えばビザもバウチャーも市立図書館で借りた数年前のガイドブックとは違うものになっていたし、最新版の『地球の歩き方』でも「英語を話すスタッフがいない」とあるこのホテルでそのような不便は感じていない。この国が急激な変化の過程に今もあることが窺い知れる。

 今日はいよいよシベリア鉄道に乗車する。発車時刻は15時37分(現地時間)で、14時30分にホテルに送迎の車が来る。時間があるので当然街歩きに出る。海に面したホテル前は寒く、トレーナーに毛のパーカーまで着込む。

 さしあたってはルーブル(以下、Pと標記。英語のRに相当)を入手しなくてはならず、ホテルの両替所はまだ開いていないから駅前の郵便局を目指す。しかし『地球の歩き方』に示されたその建物には何も看板が出ていない。意を決して入っても中は工事現場のように雑然としており、退散するほかなかった。
ウラジオストックのトラム。これは比較的新しい車両
 しからばとフェリーターミナルへ転進する。お金を支払うブースがありここかと思ったが、よく見るとそれは有料トイレの料金所であった。大分探し回った挙句、駅の隣に銀行を発見、$1=26Pであった。テロを契機に民間両替商の$交換レートが極端に悪くなっていると朝日新聞に出ていたが、至極まっとうなレートで安心する。

 目の前にトラムの折り返し場があり、当然写真撮影に励む。通りがかったロシア人がいぶかしげな視線を向けているのはまぁ分かるが、ひさめ氏まで同じく冷ややかなのでやりきれない。

 大通り抜けてグフ百貨店へ行く。ザクとは関係がない。元国営百貨店で、商品が実に整然と並べられているがお客は少ない。かわりに昨日の飛行機で見かけた日本人の熟年一行に会う。墓参団の市内観光だろうか。

 ロシア料理店で昼食。併設のお土産屋さんが墓参団で雑踏している。レストランはがらがらだったが、奥まった一角に日本人とロシア人半々くらいのビジネスマン一行がいる。通訳を介して日露のペット事情談義に花を咲かせており、その種の商社の営業の席と見受けられる。

 ボルシチはあったがビーフストロガノフは品切れで、代わりに頼んだ品もしばらくして用意できないと伝えに来た。ウェイターがメニューの1つをさして「これがオススメだ」と盛んに薦めるが、その料理しか出来ないのかもしれない。2人で500Pと結構高かったが、それでも2000円ちょっとである。

 さて、いよいよシベリア鉄道乗車のときが近づいた。駅はさして遠くないのだが、迎えの車があるのでホテルのロビーで待機する。所定の14時半より少し早く、見覚えのある大柄なロシア人が1人でやって来た。昨日空港からホテルまでハンドルを握っていたオジサンである(以下、D氏と記述)。

 あっという間に駅に着き、親切にもD氏は待合室まで送ってくれる。僕達が乗るのは看板列車のモスクワМосква行ロシア号、ではなく途中のノボシビルスク止まりの7列車シベリア号である。待合室の電光掲示板に、「7 СК НОВОСИБИРСК 21 00」の文字が光っている。21 00?行程表に記された発車時刻は15時37分である。

 ゛Problem."隣のD氏がそうつぶやいた。

 一瞬僕は掲示板がモスクワ時刻標記で、30分位遅れるのかと勘違いした。゛But...is it Moscow time?" ゛No,it's Vladivostok time."そしてもう1度D氏は゛Problem."とつぶやいて僕達を階下へ連れて行き、窓口の列に並んだ。

 窓口から帰ってきたD氏は僕達に、ここ1週間シベリア鉄道では工事が行われており、7列車の発車が21時に変更されている事を伝えた。何でそんな事が今まで分からなかったのかと思うが、D氏の責任ではないから文句を言っても仕方がない。ともあれD氏はまたまた゛Problem."と肩をすくめた。

 さてこれからどうするか。この際市電やらトロリーバスやらいろいろ乗って市内を回ってみるのも面白そうだが、大荷物が邪魔である。考えあぐねているとD氏が、1時間$5で市内を案内すると言ってきたので、その提案に乗ることにした。早速D氏は自宅に電話をかけに行った。英語が堪能な娘さんに手伝ってもらうらしい。

 というわけでまずは駅から程近いD氏の団地へ寄って、娘さんを拾う(彼女はちゃんと名乗ってくれたのだが、聞き取れなかったので遺憾ながら以下D娘と表記)。大学で英語を学んで2年目というから20歳すぎであろう。昨日来ロシア女性(若者限定)の美貌には眼を見張るものがあったが、彼女もまた美人である。

 街外れの展望台に登った後、中心部の革命戦士広場を散策する。州政府の無骨な高層ビルが建っており、そちらにカメラを向けても大丈夫かとD娘に聞くと゛No problem!"と即答。D氏が゛Pentagon"と誇らしげに指差す(時節柄ある意味洒落になっていないが)海軍司令部の前では、ロシア兵と韓国人観光客が肩を組んで記念写真を撮っている。時代は変わったものである。

 その韓国人の後について25P払い、保存されている潜水艦の中に入る。水兵が寄って来て、ひさめ氏に軍服を着せて写真を撮らせようとする。ひさめ氏は渋ったが、つい、まぁまぁ記念だからと僕が勧めてしまう。ぼったくりだと気が付いたのは、服を着た後、水兵もどきが「さんじゅうるーぶる」と日本語で要求してからであった。

 車は海沿いの通りを郊外へ向かい、路地へ入ると急坂を登って教会の前で止まった。ロシア正教の玉葱型の建築である。が、ロープが張ってあり中に入れない。聖職者というよりロシアンマフィアっぽい男が出てきてD氏と押し問答があり、結局15Pだったかを払わされる。しかし小額紙幣が尽きたからといって250P札を出し、教会につり銭を要求する僕達もかなりタチが悪い。

 D娘の大学に隣接した日本庭園を見て、最初とは別の展望台へ。ネタ切れの感がしなくもないが、D娘が「フニクリ・フニクラ」と指差す先にケーブルカーが走っており、盛んにシャッターを切る。と、D氏が乗ってみたいかと訊いてきた。これまでトラムと並走しても近郊電車の車庫の脇を通ってもさして関心ないフリをしてきたが、どうも僕の事を乗り物好きだと認識したらしい。勧められればもちろん乗る。40年も前の開業だけあって相当古びていたが、D娘の友人達が大勢乗り込んでいて賑やかだった。通学にも使うらしい。

 続いてフェリー乗り場へ。ケーブルカーの次は船に乗せてやろうという算段である。切符売り場は雑踏していて、何となく不安を感じたので肩に掛けていたカメラをたすき掛けにし直そうとした。手洗いに行きたくもあり少々焦っていた。

 次の瞬間、悲劇は訪れた。
ご覧の有様
 カメラの肩紐が耳に引っかかり、眼鏡が外れた。しまったと思う間もなくそれは固い床に叩きつけられ、あ〜るの竿の先端が音速を超えた時の、鳥坂センパイの眼鏡のように縦横にひびが入ったのである。

 今回は水道水の質に不安があったから、コンタクトレンズは持ってこなかった。裸眼視力は0.02しかない。僕は固まり、代わりにひさめ氏が驚愕した。

「予備の眼鏡持ってないんだか」 「…持ってへん」

「わたしの予備使うかね?」 

 思えば大学入学式の日に駿府公園で出会ってから幾年月、ひさめ様のご尊顔がこんなにも神々しく見えたのはこれが初めてであった。ありがたく借用する。度数は合わないしひさめ氏曰く「メガネトップでも落ちない汚れ」が付着していて見づらいが、裸眼よりはもちろんはるかにマシである。

 とは言ってももちろん激しく意気消沈していて、盛り上がらぬまま船内へと入る。船は細長い湾の奥へと進み、工場地帯のような殺風景な岸壁に着岸した。他のロシア人乗客はみな降りてしまったが、D娘はそのまま乗っていてくださいと言う。湾内遊覧船ではなく、地元の連絡船に往復乗船したようだ。

 やがて操舵手がやってきて、D娘と口論を始める。ロシア語なので皆目分からないが、どうやら1枚の切符で往復できるように乗り場で話をつけたのに、操舵手が帰りの運賃を要求しているらしい。結局D娘は、僕達に運賃の支払いを求めた。先ほどの教会でもそうだったが、僕達に支払いを求める段になると、彼女は本当に済まなそうな顔をする。外国人観光客から金をせびろうとするロシア人の振る舞いを恥じているように、僕には思われた。

 元の乗り場へ戻り車は水族館へ。時刻は18時、おそらくここが市内観光のシメのつもりなのだろう。が、扉が固く閉ざされている。そういえばガイドブックに「月曜定休」となかっただろうか。入口脇のロシア語の看板にそう書いてあるように思えたので指差すと、D娘は僕の肩をばしばし叩いて大笑いし引き返した。

 行く場所がなくなったので新興団地内のスーパーマーケットで買物をする。日本のスーパーと何ら変わらず、モノがあふれている。道端ではおばさんが大きなスイカを山ほど並べて露店を開いているし、わずか数年前に経済の大混乱が報じられた国とは到底思えなかった。

 20時、車はウラジオストック駅へと戻ってきた。発車時刻までようやくあと1時間となり、ホームで入線を待つ。胸が高鳴る。と、アナウンスが何か告げた。途端にD娘大笑い。嫌な予感がする。

 雑踏する待合室へ出向くとほどなく、7列車発車案内の「21 00」の数字が点滅し、「21 30」と変わった。なんとこの期に及んでさらに30分遅れである。さすがにがっくりしてへたり込む。

 無為な1時間半近くを過ごし、ようやく放送が入って乗客がホームへと移動し始めた。やがて7列車シベリア号が入線してくる。先頭は入換用のディーゼル機関車、見上げるほどの巨大な体躯である。後ろに客車の列が続く。雑誌等でおなじみの濃緑色のほか、白や赤や色とりどりの客車が繋がっている。長い。20両近くはあろうか。

 やがて列車は緩やかに停車し、タラップがおりてきて女性車掌が各車両の前に立った。車内には4人用コンパートメントがずらりと並んでいるが、真っ暗でメガネの度も合ってないから勝手が分からない。D父娘に荷物運びを手伝ってもらい、ベット下の収納庫にどうやら収まったったところで固い握手を交わし父娘は帰っていった。いい人たちに出会えたと思う。

 21時35分、掲示板の時刻より5分遅く、夕刻までの発車予定時刻からは35分遅く、そして定刻からは実に5時間57分も遅れてゆっくりと列車は動き出した。イルクーツクまで4106kmのシベリア鉄道の旅が、ようやく始まったのであった。

(つづく)
2001.11.6
on line 2002.8.25
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