シベリア鉄道・大遅延




▼第1部 離陸まで

 2001年7月21日(土)、那須・K温泉旅館。大学卒業以来行われてきた(そしてただの1度、速星千里氏が文章化したきりの)仲間内の温泉旅行の中でも、この旅館の評価は最低に近かったと言って良い。それは一言で言えば清潔感に乏しかった点に尽きるのだが、とにかく評判が悪かった。

 そのせいだかどうだかは知らないが、ふて寝を決め込んだ速星氏を尻に、ひさめ氏と僕は2ヵ月後に迫っていた海外旅行の相談を始めた。月初から続いていたメールでの大激論の末、方向性は固まっていた。

「じゃ、HISのカンボジアという事で」「うむ」

 ホーチミン(ベトナム)経由でアンコールワットへ。実に魅力的なルートである。さあ決まった。すっきりした気分で、畳を這いまわる虫を没になったANAの敦煌ツアーのパンフで叩き、くずかごに放り込む。

 しかし大変なのはここからであった。週明けにHISに申し込みに行くと、このツアー既に満員だったのである。キャンセル待ちも見込み薄。どうもベトナムが人気爆発中らしい。再びひさめ氏とメールのやりとりが始まった。

ひさめ氏の発言
>ふとんがふっとんだー、くらいのギャグならいつでもいえそうです。

>そうか。
>せんべい。

僕の発言
>お隣さんの犬がうるさくてかなワン。

>はー。(ため息)
>以上今日の愚痴終わり。

 かように実に有意義な激論が交わされていたのである。行先はタイ経由カンボジアを筆頭に、ウルムチ・カシュガル(中国)、敦煌、チベット、ハバロフスク、ユジノサハリンスク(樺太)、果てはアジア旅行のはずだったのにブタペストや南米まで。パンフの集め直しからネットサーフィンやら今更ABロード購入とか実に忙しく、もう仕事中も頭の中は旅行の事でいっぱいになっていた。

 ようやく固まったのは8月の初旬。ロシアはウラジオストックからイルクーツクまでの、シベリア鉄道の旅である。旅行会社はファイブスタークラブという聞き慣れない名前で、どんな会社かと思い行ってみると、神保町の雑居ビル1フロアの小さなオフィスであった。

***

 9月16日(日)、伊勢原8時09分発の小田急線急行で旅立つ。同行のひさめ氏も今ごろ新幹線の車中のはずである。ちなみに、新幹線がひさめ宅最寄の浜松を出るのは8時03分。伊勢原発時刻とわずか6分しか差がない。さすが超特急、と言いたいところであるが、伊勢原のあまりの田舎っぷりと小田急の鈍足ぶりが情けなくなってくる。

 9時16分新宿着。いつもの海外行きなら山手線で日暮里へ、であるが中央線に乗り東京を目指す。極東への航空機は成田からは飛ばない。目指すは遥か新潟空港である。シベリア鉄道に乗るという話をすると、周囲の人間はまず「金正日が乗った…」と茶々を入れ、次に新潟というひねくれた出発地に目を丸くし、最後はウラジオストック航空というどマイナーな航空会社名を聞いて卒倒したものである。かく言う僕もそんな航空会社があるとは知らなかった。

 東京駅21番線に立ち、「長野行はこの列ですか?」と尋ねてきたおばさんの案内などしているうちに、ひさめ氏がやって来た。リュックにスポーツバッグ1つきりという身軽ないでたちだが、カメラを忘れるという大ボケをしょっぱなから炸裂させている。写ルンですで済ます模様。誠に勿体無い。

 10時12分、Maxあさひ313号はゆっくりと発車した。椅子が倒れないのを知っているのに何故か2Fに座っている(高い所がお好き)。上野、大宮、高崎、越後湯沢、長岡と止まるべき駅に止まり、ついでに燕三条という止まらなくてもいい駅に止まって12時17分新潟着。ホームに降りると、スーツケースを転がす人がちらほらと見受けられた。駅内のマックで昼食。

 バス乗り場が見つからず大いに迷うが、13時の便には間に合った。新潟交通の急行バスで、港湾地帯に隣接した田舎道をのんびりと走る。所要30分弱。やがて見えたきた新潟空港のターミナルはピカピカの出来たてであった。しかし国内線とあわせても名古屋の旧国際線ターミナルより小さく、やはり地方空港である。

 ファイブスターの日程表によると、集合はウラジオストック航空カウンターに13時30分となっている。現地係員しかつかないツアーだから、要するにその時刻に搭乗手続きをせよという事らしい。しかしウラジオストック航空の専用カウンターなど存在しない。JALの大表示の下に小さくステッカーが貼ってあるだけであった。わざわざ新潟までやってきても、やはりこの会社マイナーである。

 X線検査の係員は栗毛のエキゾチックな女性であった。「ズドラーストヴィーチェ(今日は)」と言おうとしたが、言い出せないシャイな僕。代わりにひさめ氏に「ようやくロシア旅行っぽくなってきたなぁ」と感想を述べる。ひさめ氏曰く「あれ日本人だら」 …話しかけなくてよかった。

 チェックインカウンターの前、というより何となく固まっている日本人の一団の後ろに並ぶ。積み上げられたダンボール箱の1つが小田急系の引越業者のもので、おや地元かと貼ってあった伝票を見ると青山学院大学とある。研究調査に出かける一行らしい。ようやく順番がきて手にした搭乗券は、ロゴこそないが明らかにJAL仕様であった。どうも委託のようだ。

 時間が有り余ったので売店へ入ると、何故か明日発売のはずのビックコミックスピリッツが置いてある。作中でテロ事件勃発中だった「20世紀少年」(浦沢直樹)が休載にならなかったのでとりあえずホッとする。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、それにしてもどんな非現実なフィクションもこの世の中で起こってしまうのか、と改めて慄然とした思いに駆られる。

 何時の間にか国際線乗り場の扉が開いており、長蛇の列が出来ている。しかしさして厳しい検査が行われているわけでは無く、リュックを開けることも金属探知機に引っかかる事も無いまますり抜けてしまった。かつてハイジャック事件直後の羽田空港でベルトが金属探知にかかった事があるが、田舎空港はいまいち危機感に乏しい。

 元々事務的でしかなかった出国審査は、驚いた事に出入国カード廃止となっていた(日本人のみ)。ますますあっさりと日本脱出である。
ツポレフ154 XF808便
 免税店を冷やかすうちに搭乗開始。XF808便の機材はボーイングではなく、ツポレフ154型機である。ツポレフって一体何、という疑問が当然生じるが、とりあえず外観上はエンジンが主翼ではなく尾翼の付け根についているのが目立つ。あんな後ろに付いていてバランスは悪くないのか、と心配になる。しかしそれ以外(゛それ"が一番重要じゃないかという気はするが)は別にどうと言う事はない。カラーリングもオーソドックスで、尾翼には英語の略称であるVAのロゴが輝く。無論Visual Artsとは何の関係もない。

 しかし外観はともかく、機内の老朽化は激しかった。室内は薄暗く、椅子はぼろっちく、腰掛けると背ずりに板が入っていないのか頼りない感触だ。禁煙やシートベルトのサインは小さく少なく、極めつけは荷棚に蓋がない。どう考えても揺れると荷物が落ちてくると思うのだが。

 なんとも不安なツポレフであるが、実は7月に墜落している。場所は今回訪れるイルクーツク、しかもウラジオストック航空機が起こした事故である。これを知ったのは帰国後であったが、事前に知らなくて本当に良かったと思う。

 百数十人乗りのうち7割くらいの座席が埋まる。日本人が6、7割と言ったところで、ロシア人以外の外人(あ、我々が外人か)は見当たらない。機はほぼ定刻(15時40分)通りに動き出した。鋭い加速ながら長い長い滑走であった。

(つづく)
2001.11.6
on line 2002.8.25
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