或る3日間のヨコハマ  〜 1. 東横線の消えた夜(2004.1.30)
桜木町夜景


紅葉坂より
「あれみなとみらい21の開発地?」
「おっ よく知ってるじゃないか」
 (発行・監修:東京急行電鉄、漫画:森真理
「東急89駅小さな旅・PART4 すたんぷポン!」より)

 初めて東横線に乗ったのは、1987年の夏休みのことだった。関東私鉄各社が競うように開催していた、スタンプラリーに参加したのである。横浜駅でスタンプ帳と200円(小人)の一日乗車券を購入し、真っ先に向かったのが桜木町だった。

 当時の桜木町界隈について覚えていることは何もないが、みなとみらい(MM)はまだ基盤造成中で、日本丸以外は何もなかったらしい。そこに高層ビルが林立することも、ましてそのMMに僕が勤務することも、もちろん想像もつかないことであった。

 定期券はJRのものだから、就職後も東横線に乗ることは滅多になかった。しかし、職場から見下ろせば、東横線は何時もそこにあった。時折聞こえてくるけたたましい発車ベルや、9000系の豪快なVVVFモーター音にもすっかり耳馴染んだ。

 その東横線が、なくなる。

 横浜高速鉄道MM線の開通と引き換えに廃止されることは、大分前から決まっていた。MMの今後や横浜中心部への利便性を考えれば、MM線はなくてはならない地下鉄だった。新線開通は、趣味者としても勿論楽しみだった。だけど、廃止が近づくにつれて増えてきた、ホーム上のファンの群れを眺めながら、一抹の寂しさはやはり覚えずにはいられなかった。

 1月30日、東横線の最終日。結局僕は、愛用の一眼レフを持たずに出勤した。周りは「写真撮るんでしょ?」とか「終電乗った後会社に泊まれば?」などとこぞって僕を冷やかしたが、最終日になっていきなり騒ぎ出すのはどうにも恥かしいような気がした。帰りに名残り乗車をする程度に留めようと思っていた。

 しかしその日の昼休み、僕は弁当を食う時間も惜しんで携帯電話のカメラを東横線に向けていた。やっぱり僕は、生粋の鉄道マニアであるらしかった。

 午後になると、オフィスから見下ろす桜木町ホームはいよいよヒートアップしているようだった。線路上には、国道16号沿いに並んだビルの影が差している。この付近で写真を撮ろうと思えば、光線の良い午前中が勝負である。こんな時間に撮るくらいなら明日出直したほうが良いのだが、この区間に"明日"はない。

 夜の帳がすっかり下りた頃、オフィスを後にして桜木町駅に向かう。普段は海側のJR用地を抜けて近道をしているが、今日は勿論16号線を歩く。幾人もが線路にカメラを向けている。ファンだけではない。携帯を向ける女の子もいれば、見納めとばかりにじっと電車を見つめる地元の方もいる。

 駅構内は雑踏を極めていた。記念切符を求める列が、16号線のバス停の向こうまで続いている。券売機も長い列。急ぐ乗客には、証明書を渡して着駅精算を呼びかけている。

 ホームもまた、足の踏み場もないような混雑となっていた。人を掻き分けてはスペースを見つけ、携帯のシャッターを切る。ハタ迷惑な行動ではあるが、その場にいる人間は皆同じ行動をとっており、お互い様同然ではある。そんな活況の中、キヨスクだけが既に店を閉じていた。

 何時までもいても仕方がないので、9000系の各駅停車に乗りこむ。16号線の歩道上に真っ直ぐ伸びた高架線を、各駅停車はすいすいと走る。ノロノロギクシャクのお隣根岸線209系と比べて、なんと高級な走りかと思う。自動放送に続いて「永年のご愛顧、ありがとうございました」と肉声が車内に流れた。

 高島町の混雑は桜木町ほどではなかったが、普段は無人同然の駅なだけに、ファンのフィーバーっぷりはかえって目立っているように思われた。通過電車にフラッシュを焚く無法者もいれば、回数券を買って11枚全部自動改札機に通している猛者もいる。

 すぐそこに、相鉄の横浜駅ビルが見えている。あそこまで乗ってしまえば、この名残り乗車もおしまいである。そして、もう2度と桜木町から東横線に乗ることはない。

 意を決して乗り込んだ電車は、ゆっくりとJRを跨いで横浜駅に滑り込んだ。何本か電車を眺めてから、そっと僕はその場を去った。
ランドマークを見上げて
消える駅名

2004.2.8
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