四半世紀後の2万キロ・第9章


路線 名
都道 府県
現在 の運営会社
宮脇 氏の乗車日
tko.mの乗車日
妻線
宮崎県
廃止
1977.4.16
未乗
湯前線
熊本県
くま川鉄道
1977.4.16 未乗
甘木線
佐賀県・福岡県
甘木鉄道
1977.4.16
2004.5.3
矢部線
福岡県
廃止
1977.4.17
未乗
長崎本線(新線)
長崎県
JR九州
1977.4.17
1997.12.16
漆生線
福岡県
廃止
1977.4.17
未乗
糸田線
福岡県
平成筑豊鉄道
1977.4.17
未乗
香月線
福岡県
廃止
1977.4.18
未乗
宮田線
福岡県
廃止
1977.4.18
未乗
室木線
福岡県
廃止
1977.4.18
未乗


 別府のすこし手前で眼がさめた。−第9章は、こんなフレーズから始まる。いつもの旅と変わらない、夜行列車での目覚めである。

 しかし東北へ向かった第8章と第9章の間には、実に9ヶ月ものブランクがある。この間、宮脇氏は仕事に忙殺され、国鉄は50%値上げと言う今となっては 信じ難い暴挙に出て利用者離れを加速させる。それでも、移ろう世の中のことなど何も眼中にないかのように、氏は何食わぬ顔で書き始めるのである。別府のすこし手前で目がさめた、と。

 侘び寂びの世界に到達した、達観ここに極まった文章…かというと、実はそうでもない。久しぶりの大旅行でさすがに高揚していたのだろう。行間から、氏の熱気がにじみ出ているような気がしてならない。

 見えるわけないのに、サファリパークのキリンの首が見えないかときょろきょろする宮脇氏。

 鹿児島本線の度重なる非協力ぶりに立腹する宮脇氏。

 矢部線のディーゼルカーの車両運用が予想通りで、有頂天になる宮脇氏。

 糸田線で駅名標の写真を一駅ごとに撮っていく宮脇氏。

 九州完乗の嬉しさで、珍しく土産物を買いこんだ宮脇氏。
甘木鉄道
 朴訥とした文章の裏側に、やっぱり鉄道マニアだった氏の動静が垣間見られて、思わずニヤニヤとさせられてしまう。それでもマニア的な嫌らしさが行動からも文章からも露ほども感じられないのは、やはり人柄なんだなあと思う。

 それにしても、北海道ほどではないにせよ、今となっては廃線の山である。無くなったのはローカル線だけではない。ワイド周遊券も鬼籍に入ったし、「秘境」と賞された米良荘はダム建設に揺れている。だけど良くなった例もたまにはあって、第3セクター化された甘木線の運転本数は7往復から46往復へと激増した。まあ、これとてローカル線の風情と言う点では「退化」なのかもしれないが、そう嘆くのはナンセンスと言うものだろう。


 話はここで突然変わる。GWに、宮脇氏のお墓へと行ってきた。

 お墓の所在地を知ったのは、今年の初め頃だった。青山霊園に建つ記念碑の写真をネット上でたまたま見つけたのである。大掛かりな弔いを避けた氏にも碑が建つのか、と僕は少々意外の感を受けた。

 後日その話を友人にしたところ、僕以上に宮脇ファンである彼は「感度の話」という短文の存在を教えてくれた(「旅は自由席」 新潮文庫 1995年所収)。青山へ墓参に行った際の不可思議な、しかし何処かハートウォームで、そして何故かトボけた感のあるそのエピソードを読んで、僕はそのお墓を訪ねてみたくなった。自宅から青山までは、片道1時間半。東京へ遊びに行った際のついででも、と思っているうちにずるずると時は流れ、4月29日、相互リンク先のove250さんが東京へやって来た。

 お昼少し前、外苑前で降りて地上へ出る。つい30分前まで下町・三ノ輪にいたのだが、青山ともなれば町の雰囲気はがらっと変わる。同じ東京とは言え、共通するのは初夏の強い日差しだけだ。

 青山通を横断して脇道に入る。さして人通りも無い静かな道で、石屋さんがある。ほどなく道は霊園の中へと入る。休日ではあったが霊園事務所は開いていて、いやに天井の高い事務室で来意を告げた。

 お彼岸でもなんでもないから、霊園は静かだった。若葉木立の中を真っ直ぐ進んで、右に曲がって、その先で道に迷う。お名前を一基毎に確 認しながら一列分歩いたけれども、宮脇家のお墓は見当たらない。2列くらい向こうで作業をしている2人連れがいるけれど、こちらを不審者と疑わない代わりに、道案内もしてくれる気配は無い。

 ううむ、と唸りつつぐるりと振り返る。隣の列に、どこか見覚えのある茶色い石板が見えた。もしやと思い早足で近づくと、それはやはり記念碑の裏側だった。

 宮脇家の墓所は左右両区画と同様に小さく囲われた、ごく普通の広さだった。正面の黒光りする墓石は小さく、成る程これが「感度の話」で小さく作り変えたと書いてあった石かと感心する。右手には写真で見た通りの、「終着駅は始発駅」と刻まれた碑が建っている。

 「鉄道の見えない場所なのが残念ですね」とove250さんが言った。そうは言っても代々の墓だし、木々に囲まれた環境は決して悪くない。第一、青山にお墓がを持てると言うのは、相当に恵まれているのだ。だけどもやっぱり、そうした思いが浮かんでしまうのは止むを得ない事ではあった。

 そっと合掌した。乾ききった敷地の一隅に蟻の巣があって、最近とんと見ていないような大きな黒蟻がせわしなく出入りしていた。場所が場所だけに、その「生」のありようが不思議と印象に残っている。

 ove250さんはこの後京都に帰り、5月4日に桜島線に乗ってJR全線完乗を達成する。僕はといえば、奇しくも同じ日に中国地方の未乗路線が無くな る。「片付ける人が大変だから」と花さえも持ってこず、代わりにそんな話を墓前で延々と続ける僕達は、あるいは宮脇氏にとって迷惑な存在だったかもしれない。

 それでもこの場所で語らう事は、意味があったのだと僕は信じたい。独りよがりな考えだけれども、手ぶらでやって来た僕達にとって、語る事こそが宮脇氏への弔意に他ならなかったのだから。


(つづく)

2005.5.15
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