四半世紀後の2万キロ・第5章


路線名
都道府県
現在の運営会社
宮脇氏の乗車日
tko.mの乗車日
「西寒川線」
神奈川県
廃止
1976.4.17
未乗
清水港線
静岡県
廃止
1976.5.2
未乗
岡多線
愛知県
愛知環状鉄道
1976.5.2
1996.1.5
武豊線
愛知県
JR東海
1976.5.2
1997.4.3
「赤坂線」
岐阜県
JR東海
1976.5.2
2002.11.30
樽見線
岐阜県
樽見鉄道
1976.5.2
未乗
        

 首都圏と中京圏の6線の乗車記を綴った第5章はずいぶんとあっさりとしていている。武豊線に至っては車窓についての記述が全く無いし、男鹿線や倉吉線のように標題からさえ省かれた路線も多い。言い方は悪いが、「繋ぎ」の印象さえ受けてしまうこともある。

 一口に「鉄道ファン」といってもその興味の対象は千差万別だが、大雑把に言えば大抵のファンは都市路線よりローカル線の方が好きである。特に旅行の場合は、非日常を求めてこその旅だから、ローカル線にその興味が偏ることは仕方の無いことだと思う。

 しかし僕はと言えば、私鉄沿線で育ったためか都市鉄道が好きで好きでたまらない。ローカル線に乗るよりも、山手線の方が楽しい事だってある。少なくとも初めて「時刻表2万キロ」を読んだ際、ひときわ面白かったのは第2章と本章だった。とりわけ、「西寒川線」がとりあげられた本章は、情景を思い浮かべながらワクワクして読み進めたように思う。

 「西寒川線」(相模線寒川支線)は、本書で取り上げられた路線のなかで僕の自宅から最も近い。相模線にはずいぶんと思い入れがある。1979年から87年までは厚木駅から徒歩12分の所に住んでいたのである。車両はタラコ色のキハ35の2〜4連、国鉄末期までは1時間に1本しか走っていなかった。タブレットや硬券切符さえ残っていたし、冷房化率はゼロだった。

 要するに、同じ海老名市内を走る小田急や相鉄とは別次元の乗り物だった。図書館で「日本のローカル線」といった類の写真集を開いて、相模線が載っていないのが不思議でならなかった。相模線こそはローカル線の中のローカル線だと、固く信じていた。

 しかしそう言った思い出は全て本線(茅ヶ崎−橋本)に関するもので、寒川から分岐していた支線に関する記憶は殆ど無い。「西寒川線」廃止は1984年4月(3月末まで運行)、小学校低学年の児童の記憶に残るはずも無かった。1度だけ寒川駅で西寒川行のサボをつけた列車を見たこと、茅ヶ崎の海水浴場へ行く県道の途中で、本線・支線の踏切を続けて渡ったことくらいしか覚えていない。

 「西寒川線」の廃線跡は、その後遊歩道として整備されたと聞く。2003年9月、僕はその廃線跡を訪ねてみることにした。


 寒川駅のホームは島式1面である。西側には空地があるが、昔からホームは1本しかなかった気がする。橋上駅舎西側の出口から線路に沿って北上すると、茅ヶ崎への県道とぶつかる手前で「西寒川線」が本線から分岐するはずである。しかし、線路沿いは住宅が続くばかりで一向に廃線跡らしきものは現れない。とうとう県道との交差部まで来てしまった。いつの間にそうなったのか、県道は立派な地下道に化けている。

 おかしいなあと思いつつ県道を跨ぐと、ここでようやく細長い草むらが現れた。相模線から緩やかに分岐するその姿は、「西寒川線」跡に間違いない。ほどなく道路と平面交差する。すぐ北側には本線の踏切があり、その向こうには寒川神社参道の木立が続いている。ここがおぼろげに記憶していた2連続の踏切に間違いない。先ほどのアンダーパスは、バイパスとして新規に造成されたのであろう。踏切と対峙した大鳥居が懐かしいが、こんなに小さかったかとも思う。

一之宮公園  踏切跡を渡ると、廃線跡は「一之宮緑道」という遊歩道になる。タイル敷きの歩道の両側に車道が張りついている。いかにも線路が通じていた、という雰囲気である。相鉄線大和駅付近の旧線跡を小ぶりにしたような印象を受ける。道の両側には住宅が切れ目無く続いており、この辺りも完全に東京への通勤圏になったのだろう。最近では相模線、特に茅ヶ崎−寒川や上溝−橋本はいつ乗っても混んでいる。

 5分も行くと、左手に一之宮公園が広がる。西寒川まで途中駅や信号所は無かったはずだから、線路際の工場か何かの用地を転用したのだろう。子供たちや親子連れで賑わっているのは結構だが、「西寒川線」に関する説明の類が全く無いのはどうしたことか。案内板が駅名標を模していたり、入口に車輪が置かれていたりと"らしき"演出はされているのに、これでは画竜点睛を欠いている。

 公園内では、廃線跡に線路が敷かれている。当時の軌道をそのまま残してあるかどうかは、その種の案内が無いから分からない。今にもキハ35が走ってきそう…と言いたい所であるが、車両に触れてしまう位置に木の枝や幹が張り出している。廃線後に木々が育ったのか、あるいはもう列車の走らない線路際に、車両限界などお構いなしに木を植えたのか。

 一之宮公園を過ぎると、再び宅地の中の遊歩道となる。左右に"線路"と並行していた道はやがて尽き、民家の裏手や畑の脇をまっすぐに進んでいく。ローカル線のムードが少しながらも漂ってくるが、信号を一つ越えると再び公園が現れて遊歩道は終点となる。「八角公園」という由来の良く分からない名前が付けられた(実際八角形の池があるが)この地が、どうやら西寒川駅跡らしい。寒川からは1.5km、歩いてみてもさほどの距離ではなかった。

 ここでも公園内には線路が敷かれ、トロッコ風の遊具が置かれている。背後には住宅が並び、子供たちで賑わっているのも一之宮公園と一緒だ。目の前の道路には茅ヶ崎駅へ行く神奈中のバス路線が通じ、概ね1時間ごとに運転されている。もっともバス停の名前は「西寒川駅」でも「駅跡」でもなく、「八角公園前」だ。バス通りの向かいは工業団地が広がっている。
八角公園
 公園の隅に「国鉄西寒川駅 相模海軍工廠跡」と石碑が立っている。寒川から歩き始めて以来はじめての、そして唯一の「西寒川線」に関する記念碑である。が、これも「国鉄」より「海軍」の文字の方が大きく、その方面の方々が建立したものらしい。目の前の工業団地は元々海軍の工場であり、この路線が相模川の砂利採取以外に行員輸送の任も担ってきた事を初めて知った。ついでに、少しく前に寒川で毒ガス騒ぎがあった事も思い出した。

 廃線からの年月を物語るように、八角公園にもまた木々が高く茂っていた。


 「時刻表2万キロ」ではわずか2ページ(文庫版)の「西寒川線」について、延々と綴ってしまった。第5章にはこの他にも、数年前の住処から割と近い清水港線や、雪中の乗車となった愛環線、JR東海最後の一線となった「赤坂線」など思い入れの深い路線が目白押しとなっている。その話はいずれ、と言うことにしておこう。


(つづく)

2003.10.26
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